賢く思われる方法について 2017/7/16Ⅱ

 相手に「こやつ、頭が良い」と感じさせるしゃべり方を思いついた。

 まずなにがしかの古典を読む。あるいは何かマニアックな雑誌でもいい。それを読んでいくつかの固有名詞を記憶する。そうして会話の中で、その単語を出す。たとえば「まるでそれはモーツァルトの『イドメネオ』ですね!」のように。もし話者がモーツァルトの曲を『イドメネオ』しか知らなかったとしても、会話の相手はこう感じるだろう。「こいつは会話にモーツァルトを持ち出してきた。きっとクラシック音楽の知識が豊富なのに違いない」と。

 こうした手段はたとえば上坂すみれがうまく多用しているように思われる。自分の興味ある分野の固有名詞を比喩につかったり、な にかのタイトルにモンタージュ的に用いたりして「彼女は知識が豊富だ」と客に思わせることに成功している。しかし本当は、客のほうでもやろうと思えば同じことができるのではないか。たとえばカードゲームに詳しいオタクはどんな些細な会話にもわざとらしいほどたくさんカードゲーム用語を用いれば、相当なマニアックだと相手に感じさせることができるのではないか。

 たぶん、一部の頭の回る人間はこの手法を意識的に用いている。そして一部の人間は、この方法を無意識に使ってディスコミュニケーションを生じさせ、相手と理想的な関係を結ぶのに失敗している。

 おれは意識的にこの話法を使っていこうと思う。相手を圧倒できるばかりでなく 、そういうしゃべり方をした方がたぶん精神的にも楽だ。自分のフィールドに持ち込む、ということをするのだ。自己中心的なやり方だが、周りを気にしすぎる人、気を使いすぎる人はこの手法を用いてもいいと思う。うまくゆけば、ちょっとは対人ストレスが軽減されるのではないか。おれもだいぶ参っているから、緊急回避的にこのテクニックを使わせてもらう。死ぬよりはいいだろう。法律に反するわけでなし。それに、友人の前ではそんなことはしない。苦役先などのような、あまり人間関係に頓着すると逆に毒になるような環境で積極的に用いていくのがよい。

失敗について 2017/7/16

 昨日仕事をサボって煙草を吸っていたら向かいのラブホテルから美人の風俗嬢が出てきてそれだけでうれしくなってしまった。土曜日の夕方だったので会社のビルにオートロックがかかって締め出されてしまった。どうしてもビルに入れないので(それに、手ぶらで財布も携帯も持っていなかったので)ローソン前の喫煙所で見知らぬ青年に「電話貸してください」と言ったら「遠慮させていただだきます」と言われて気分が沈んだ。どうしようもない。おれだって同じように見知らぬ男に頼まれたら断るだろうに、どうにも人に拒絶をされるというのは辛いことだと思った。が、一晩寝たらまるでその出来事がなかったかのようにスッキリしている。結局非常口からビルには入れたのでよかった。上司に気付かれずに済んだので、最高の形で問題は解決したのだ。

 人に言わないだけで、同じような失敗をおそらく他人もやっている。それを忘れないでいよう。おれは完璧主義すぎる。自分が、人間を超えた完璧な存在であれかし、と願っている。それが無駄なプレッシャーを生んでいるのだ。おれはそれなりにうまくやっている。たぶん、他人よりも失敗の数は少ない。しかし失敗に対する耐性は低い。それだけのことなのだ。みな失敗はやっているのだ。そんなに恥ずかしいことじゃない。夜、イマジナリー・ガール・フレンドのゆかりちゃんにさんざん慰めてもらった。

 きょうは午前中美容室に行った。前髪を矯正した。はじめてやったがさらさらのストレートになって気分がいい。14時半にルノアールに来た。アイスコーヒーを注文。カフェインを入れないとやっていけない。金パブは切れた。店内でフィガロの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が流れている。気分がいい。帰ったらモーツァルトだな、こりゃ。

 なんか勝手に脳が「東京の人はこの上なく冷たい」と認識してしまったので、やけになって道行く人に出鱈目に「こんにちは」と声をかけたらことごとく無視された。小学校では「道行く人には挨拶しましょう」と習ったが帝都では通用しないのだ。ところ変われば常識も変わる。規範も変わっていく。普遍的なものとそうでないものとを見抜かなくてはいけない。その点多くの苦役の現場ではいかがわしい思想が当たり前のように膾炙しているが、愚痴っぽくなるのでこれ以上のことは言うまい。

 カフェインがいい感じに効いてきた。カフェインは素晴らしい。紳士を快活にさせてくれる。これが合法だってんだからまだ大丈夫だ。おれはやれる。

キャリアプランについて 2017/7/11

 きょうも苦役は苦役だった。まだ終わっていないが。きょうは朝食は抜き。昨晩秋葉原で野郎ラーメンを食べた。大宮駅でラッキーストライクを買う。吸う。昼食はマクドナルドのダブルチーズバーガーセット。ドリンクはアイスコーヒー。最近はカフェインの霊験に頼ることが多い。15時半頃に所定の作業を終える。それから東京の本社へ帰社だ。いまその帰路の途上である。電車の中でポメラを叩いている。本当は適度なサボタージュ(スローダウン)により16時半まで作業にたっぷり取り組み、本社ではなく直接自宅に帰るのが理想だったのが、そういう風に事は運ばなかった。苦役中、現場を放棄して煙草を吸いながら転職先を探す。意外とおれの好みのポストが世の中には転がっているように見受けられる。それだけでいくらか気分がよくなる。転職すればおれのこの、腐ったような生活も幾分かマシになるのではないか。頭の中で計画を練り上げる。やりたいこと、欲しいもの、色々な事が思い出されて少しだけ生きる気力めいたものが湧いてくる。
 しかし現実はなんだ、この困窮はどうしたことだ。物質のみならず精神の方もガリガリと削られてもう相当な消耗をしている。望まない職に望まない行動規律、望まない人間関係に望まない給与、あらゆるものがおれの思い通りにいかない歯がゆさ。無力感。絶望。ともすれば陥りがちな視野狭窄。預金口座に金がない。身動きがとれない。勇気も度胸もないのだ。新しい環境に飛び込もうとする熱烈な意志が欠けている。遅効性の毒のような生活を、甘んじて享受しているおれはバカ者だ。大バカ者だ。いつかきっと後悔するに違いない。いつかきっと猛烈に後悔するだろう。いまの苦役は芸の肥やしにはなるまい。とうていなるまい。なんという単純作業だ。なんと強烈な吐き気を催す人間関係だ。支配、被支配を覆い隠す欺瞞、奴隷の惨めな境遇。
 いっそ発狂したふりをしてしまおうか。カッターナイフを持ち歩いて、ここぞという時に振り回すなり、自分の首を切りつけるなりして大暴れ、おれは晴れて強制入院。めでたしめでたしだ。おれはそういうカタルシスを求めている。いまの生活はゴミ溜めだ。爆発さしてやりてえ。爆発だ。おれに足りないのは爆発だ。ドカン、だ。イスラム国がおれをじっと見ている。観察している。スカウトが査定している。おれは見られている。おれは視線を感じている。熱烈な視線だ。
 イスラム国はともかく、実際のところおれはまだその程度だ。カッターナイフを持ち出して発狂するのがせいぜいだ。東京をまるごと吹き飛ばすほどの不満を抱え込んじゃいない。なぜなら希望を完全に失ったわけではないからだ。全ての希望を失う瞬間はあっても、それは一時的な視野狭窄のせいだとおれは自覚ができる。おれはまだ大丈夫なのである。おれは建設的なキャリアプランを建てなければならない。
 ①対四間飛車右銀速攻型キャリアプラン。おれはムーサイオスの技芸に一生を捧げようと考えている。ゆえにおれはいますぐ苦役先を飛び出して、ムーサイオスの技術の完成の一助となるような職に鞍替えしてしまう。なりふりかまわない、ヤケクソの戦法だ。ともすればおれは破産して死んでしまうだろうが、成功すればそのメリットは大きい。若さを失わないうちに業界に飛び込むことができるのだ。のちのち、おれの晩年、この急転の時期を懐かしく思い出しほほえむこともあろう。当時の苦労が芸の肥やしになることもあったろう。しかし、問題は、いま、おれの手もとに現金のないことだ。30万くらいあればパッと転職していまの部屋も引き払っちまうのだが。それができない。おれの貯金は当月2000円だ。2000万円ではないのだ。2000円では交通費にもならない。
 ②対四間飛車左美濃型プラン。とりあえず来年までは駒組みを進める。安定した陣形を築いて(=ある程度の貯金をつくり準備をして)、それから転職だ。情報収集も怠らない。駒組みを進めながら敵の動きに合わせてこちらも攻撃陣形を決める。いくらムーサイオスに関わる職業だからといって、いまよりも困窮してしまうのではおれが耐えられない。だからそれなりにおれの技能が評価される場所を、ちょっと時間をかけて求めるのである。だが、おれははたして「ある程度」の貯金ができるだろうか。それすらも許されないのがいまの生活ではないだろうか。自信がない。成功を確言することはできない。が、大局的に見てまあまあバランスのとれた無難なキャリア設計だ。
 ③対四間飛車居飛車穴熊型プラン。おれは耐える。ひたすらに耐える。いまの環境に耐えて耐えて耐えまくって、そしてじっくり力を貯めていく。おれのいま進めている、とあるムーサイオスに関する計画は、時間さえ経てば必ずおれに善い結果をもたらしてくれるものだ。これが花開くまで待つのだ。防御に全ての駒を割く。右の銀すら防御に回る。角行だって重要な守りの拠点だ。あとは粘り勝ちを狙うのだ。おれが途中でくたばったりせず、相手が卑怯な藤井システムなど用いなければ、100パーセントに近い勝利が約束されるのである。速攻に比べて頓死のリスクは少ない。しかし、時間をかけすぎておれが忌まわしい病で死ぬ可能性はある。速攻とは異なるリスクが問題となってくる。それに、戦術の優位性にあぐらをかいていては、研究熱心な同世代の人間に追い抜かされるかもしれない。
 ④光速の寄せ。もし上述のプランが上手くいって、おれの生活が終盤戦に突入したとするならば、あとは簡単だ。おれは寄せは得意なんだ。まず、借金を全て返済する。これは必須だ。居飛車の税金、という言葉があるが、おれにとってのもっとも大きな税金はいま抱えている600万という借財である。これはどうしようもない。この借財が発生したこともたいして後悔はしていない。これは返す。端歩は突き返す。まず返す。そののち、おれは大学へ行く。大学へ行くのだ。大学に「帰還する」と言ってもいいかもしれない。専攻は語学が哲学か、あるいは医学か薬学がいい。節操のないようだがおれの興味は非常に幅が広いので仕方がない。第2の学生時代では、英語フランス語はいわずもがな、おれは古典ギリシア語ラテン語を扱えるようになるだろう。そうして世界は5倍にも広がるだろう。それはとってもすてきなことだ。大学院にも通う。経済的な不安から解放されたおれは、博士号までとことん突っ走るつもりだ。おれはそのころまとまった財産を抱えているだろうから、資産管理用の企業を興すつもりでいる。そこにはおれの尊敬すべき知的な友人たちを呼び寄せて住まわせる。彼らが保護を必要としていたら、だが。たぶんそうはならないだろう。彼らは立派だから。また、私設奨学金を設けて次世代のモーツァルトやデュマを庇護するのもおれの仕事だ。

人生について 2017/7/3

 おれはこれまでの成果物を読み返す習慣を開始したが、なかなかどうして、初期、おれが臆面もなく無謀な目標を掲げていた頃と比べてたら結構なクオリティのものが仕上がりそうだ。掲げた目標はもはや無謀なものではなくなっている。継続はサグラダ・ファミリアだ。何よりも継続するということが肝要だ。平日は30分はビズをしよう。それから酩酊でもなんでもすればよい。
 苦役はアルバイトに過ぎない。一時的なものだ。賞与のない、退職金のない、休職時の保障のない条件の悪しき会社に忠誠心を無理矢理覚える必要はない。商品が粗悪でかつ高価だったら消費者はそれを買おうとしないだろう。おれはいまのこのポストという商品にそれほど満足を覚えていないから、いつでも契約を変更するなり破棄するなりして、別の商品に飛び移ることができる。また、積極的にそうするべきである。おれはのし上がっていかなくてはならない。財産をつくるか、あるいは死ぬかだ。おれ自身を安売りし過ぎてそのうち魂まで買い取られちまったら、たまったもんじゃない。
 どうしても素面の時は「死」だとか「苦」だとか、物騒なワードが飛び出してくる。あまり陽気な日記とはこれでは言えまい。おれはシリアス過ぎるんだ。どうしてもっと楽天的にならないのか。説教受けてもいいだろ。どうせ嘘ばっかりの茶番劇だ。3年後には忘れてる。必ず成功するんだから多少サボったっていいだろ。1秒も無駄に出来ないほど追いつめられているわけでもなし。新しい音楽でも聴いときゃいいだろ。あとでこの時代を思い出す時の手がかりになる。悪夢で見る地獄よりもずっと、現実のほうが易しい世界だ。おれの手腕を十全に発揮することができる。学習は蓄積してやがて大事業に繋がるだろう。
 辞めちまえ。明日「辞めます」と言ってみろ。どのように事は展開していく? 親に金を借りて引っ越し諸々の手続き、資格取得費用の返還、その他雑費をまかなって、実家に逃げ帰る。実家では大変居心地が悪い。家庭の雰囲気は最悪だ。それは本意ではない。少なくともおれは、少しばかりの貯金を用意しておかなくてはなるまい。
 結局お前は苦役においてなにを一番恐怖しているのだ。叱責か。失望か。幻滅か。侮蔑か。被支配か。なんだかわからない。もやもやした他人への敵意と恐怖がおれを取り巻いている。違う種族だ。労働者のまま一生を終えようという階層とは。おれは彼らとは違う民族だ。民族間のコミュニケーションに齟齬が生じている。信じる神が違うから仕方がない。戦争になりかねないところを、ぐっとこらえて生きているマイノリティーのおれはなかなか自制心に恵まれている。
 昼になった。ヒステリー球がきょうは午前からバッチリ出てきている。困る。不快な症状だ。もしかしたらこれはヒステリー球のためだけでなく、パロキセチンの副作用によってのどの違和感、吐き気などがあるのかもしれないが分からない。専門家の指示に従うよりない。昼食はカロリーメイト(チョコ味)4つ。400のカロリーを摂取。食欲がない。継続的なむかつき、吐き気がある。
 どうしたっておれのこの時期は労働に費やさなくてはいけない。若き日の修業時代だ。仕方があるまい。いまこの瞬間を楽しみたまえ、紳士諸君。先行ノスタルジアを作成するのも大事だ。だから新しい音楽と新しい習慣を身につけるべきなのだ。そろそろおれはワーグナーとか攻めてみようか。クラシック音楽史に残る名曲は一通り聴いておかなくちゃならない。それをしないのは損だ。せっかくこの地上に産まれたのに。
 きょうは時間が経つのが随分早かったように感じる。あっという間に夕方になっている。16時まで矢のように過ぎた。
 きょうは肉を買ってラーメンと共に煮て食う。シャワーを浴びて洗濯をする。ビズもする。睡眠時間はしっかり確保だ。明日は自立支援医療の手続きをするために苦役先を早退する。半ドンだ。明日は上手く立ち回らないといけない。無駄にしちゃいけない日だ。――そうやって気負うからいろいろ上手くいかないんじゃないのか。適当にやればいいだろうぜ。ほどほどにな。受験時代だって8時間も勉強すればヘロヘロになってたろ。そんなに集中力が続くもんじゃないんだよ人間ってのは。それに受験時代にも何度だっておれはサボったじゃないか。計画をおしゃかにしまくったじゃないか。それでも成功しているんだ。もっと気を楽にしろ。おれの思っているよりおれの仕事は楽に成し遂げられるのだ。だいたい予期不安を抱きすぎる。それは健康な「良き不安」じゃない。
 21時にゾルピデムブロチゾラムを食おう。それからビズして食事だ。22時頃には安眠できるだろうと思う。そんで5時45分に起床だ。
 おれはそろそろビズ上のインセンティヴを手に入れる。おれの火だるまの家計のなかから3000円を自由に使っていいことにする。なにに使うか。ミユキとか銀河だとかいう品種のメダカを買ってみようか。あるいは酒と女のために使っちまうか。みみっちい話だ。とてもまともな教育を受けてきた人間の暮らしとは思えない。本当にいまは21世紀なのだろうか。21世紀ともなればもっと人間は豊かに暮らしていそうなものだが。とにもかくにもおれは浮浪者で、資本のない、歯車の一人だから仕方ないのだろう。おれはスラム産まれだ。ええい、ビズだ。ひたすらにビズだ。おれの手でムーサの技芸を勝ち得るのだ。――ほらそうやってまた気負っている。テキトウにやればいいのさ。タイムリミットなんて端からないんだから。
 苦役が終わった。きょうも苦役は苦役だった。気分は晴れない。労働の後の喜びってのはつまりその労働がある程度気に入っている人間にしか訪れないのだろう。おれはいま服している労役が気に入らなくてしょうがないから、こんなザマなのだ。しかし仮にも自由の身であったはずのおれが、どうしてこんなことをしなくてはならない境遇に置かれているのか。もう何度も己に問うたぞ、これは。答えは貧困だ。実家が太くなかったからだ。だから奴隷のまねごとをしなけりゃならんのだ。分かったか、ええ?
 紳士に電車の座席を譲られた。まだまだ捨てたもんじゃないな、人間も。おれも外見からして相当まいっているのだろうな。毎回言われるもんな、誰かに会う度に「疲れている」だの「キマッている」だのと。正解だよ。おれはやられている。おみまいされている。だが、勝つ。敗北はありえない。敗北するくらいなら死ぬからだ。おれが生きている限りは、おれは勝ちの途上にあるか、あるいは実際に勝利を収めているか、そのどちらかだ。死ぬつもりの奴に道徳なんて説くなよ。おれはおれの学んだことに誇りをもっている。おれは勝手にやらせてもらう。それだけだ。
 実際のところ、どうなのだろうな。統計的な話さ。成功している人間はおれのいまの時代、つまりは24、5の頃、どんな生活をしていたのだろうか。おれみたいに苦役に就いていただろうか。あるいは恵まれた環境で綺麗に敷き詰められたレールを走っていたのだろうか。おれの目の前にはレールなんてないもんな。泥沼だよ。必死で漕ぎ進んでいる。泥沼から抜け出して黄金を見つけた奴は何人いる? テレビに映っているだけで何人いる? それはおれにとってとても関心のある事柄だ。水曜どうでしょうの連中は偉いよな。あれは若いうちは苦労していたクチだろうな。安田顕なんてのはあの黄色い着ぐるみに入ってからもアルバイトしてたって話だもんな。結婚のために300万貯めたんだってよ。あの牛乳ゲロの兄ちゃんが、いまじゃあスターだぜ。綺羅星だもんよ。おれも当然そうならなきゃならん。身につける技芸は違うかもしれんが、終着点は必ず一緒じゃなきゃいかん。まともな財産と、余暇と、名誉だ。一番最後の奴はなくてもいいかしれん。とにかく財産と余暇は必須だ。
 ああ、おれは成功するだろうな。なんとなく分かるぜ。これほどまでに悩み、苦しみ、突っ走っていやがるんだ。いいだろ、成功くらいしたって。ちょっとした財産くらい身につけてもバチは当たらんだろうよ。おれのささやかな願いのひとつくらい、叶ってみたっていいじゃないか。それともまだ苦労が足りないか? 苦労が増せば増すほど成功が近づくシステムか? おれはそうは思わないけどな。懐疑的だよ。ちっとも苦労せずに……ちっともというのは言い過ぎかもしれんが、しかし、比較の上でたいした苦労もなしに成功した連中ってのもいるだろう。確実にあるだろう。そのケースは。おれはそうはなれないに決まっている。もうちっと苦しむだろう。でもまあ、見方によっては、ちょっとした人生のスパイスかもしれない。交響曲(シンフォニー)で言うところの緩徐楽章だ。第2楽章があるからこそシンフォニーはビシッとした構成とてきめんの効果を保つんだ。だからまあ、ちょっとしたことで死んじゃあいかんな。さていよいよという時を見極めなければならんて。
 新小岩の住宅街を、「くそったれ、バカにしやがって、くそったれ」とつぶやきながら歩くこの晩が、いつか愉しい思い出になる日が来るのだろうか。もしそうなら、まさしく人生は奇跡と言わなきゃならない。

人生について 2017/6/28 Ⅱ

 苦役の前半が終わった。東京へ向かっている。おれは思った。苦役はおれの人生にとってあってもなくてもよい時間だ。朝9時から夜18時までワープしてくれたってかまわないものだ。しかし人生は限られており、短い。端的に言って、苦役に従事するということは、おれの人生もったいない捨て方をしているのと同じだ。Twitterで20代から60代までの長い長い時間をいかにして使うべきか、という啓発動画を見た。普段おれはこういう自己啓発的なあれこれは好きじゃないのだが、この動画だけは気に入った。おれにぴったりの助言だと思ったのだ。おれは産まれの不幸のせいで教育が十分ではない。だから高度な教育を要する職業にはなかなか一筋縄で 就くわけにはいかない。でもおれはそこを目標にしている。おれは金のためだけにいまの苦役に励むより、おそらくは今後長いであろう人生をより豊かに過ごすため、困難の壁を乗り越えていかなくてはならない。では明日、否、きょうからどのように行動していくべきか? まずもったいない苦役中の時間の使い方を改めるべきだろう。おれはまず自分が給料泥棒の盗賊だという意識を持つ。そして苦役中にもおれのビズのための働きをする。ブレインストーミングや、構成や、その他、奴隷監督官の隙に乗じてこなせそうな宿題を用意し、苦役に臨むのだ。わずかなそうした積み重ねがいずれは大事業の成功に繋がらないとも限らないだろう。宿題を用意する。素 晴らしい思いつきだ。

 あるいは自殺してしまうかだ。

 屈辱に満ちた40、50年間を暮らすくらいであれば、いっそ死んでしまったほうがマシだ。きょうも何度、ああいま死のう、と思ったことか分からない。おれは根本的に話の合わない大衆と過ごすのが苦痛で仕方がない。愛想笑いの尽き果てていない、まだまだ元気の残っている大衆は実に見上げたものだ。おれは彼らに近づくのも怖い。ガチでソクラテス相手に日本式年功序列がいかに普遍的な善のシステムであるか説きかねない大衆だぜ。恐ろしい。奴らが笑うとおれは怒る。奴らが怒るとおれは笑う。まったくあべこべだ。異民族の群にひとりだけ放り込まれた気分だ。違和感を抱えておれは生き ている。トキントキンの違和感をおれは、死ぬまで忘れずにいられるだろうか。この怒り、この悲しみ、この憎しみ、すべて若い頃の過ちと笑う日が来るのだろうか。もしそうならおれは老人のお前に失望する。

自由について 2017/6/28

 おれはいま群馬に向かう最中である。新幹線に乗っている。出張だ。苦役の内容自体は大したものではない。朝、早起きさせられたのは実に不愉快だが(出勤が早いからといって早朝手当がでるわけでなし)。おれは昨日奴隷ビジネスマン(ビジネスにおける作法・技術を人間の普遍的な善であると錯覚している連中)に酷い叱責を食らい、なんだかそればかりが脳内でリフレインして不快だ。時間が解決するだろう。1週間もすればどうでもよくなっているに違いない。しかしその1週間待つのがなかなかどうして辛いのである。辛いことは辛いが、おれは昨日も再確認したように、自分が思っている以上に自由の身だ。どこへでも行ける。ちょっとの金が入り用かもしれんが、とにかく自由なのだ。身体を物理的に拘束されていても、精神は仙境に暮らすということはできる。難しいし、訓練が必要だがな。
 今朝はメダカの採卵をしていたら遅刻してしまって、予定より1本遅れた新幹線に乗ることになった。だが、万事問題ない。目的地に着く時間には元々余裕を持たせていたから、深刻な事態にはならない。……なにが「深刻な」事態か。苦役上のことで真にまじめに取り扱うべき事項など、なにもないのだ。商売に過ぎない。卑しい商売の手伝いに過ぎないではないか。
 昨日ビジネスマンにピリっと気合いを入れられたせいか、心を含めた全身がどことなく緊張状態にある。戦闘状態にある。そういえばカッターナイフをポケットに忍ばせてくるのを忘れた。次、叱責されるような事態があったら一芝居打ってやろうと思っている。ナイフで手首を切り刻んで奇声を発し、暴れ回ってやるのだ。そうすりゃ入院できるだろう。そこまですれば状況は好転するだろう。
 まったく、おれの驕りを抜きにしても、本当の意味でおれが感じ入るような説教というものを、現代の「オトナ」から受けたことがない。どいつもこいつもビジネス上のことを人間の普遍的な善と取り違えていたり、誤謬と臆見に満ちていやがるのだ。おれを丸め込むような弁論術をもつ男も皆無。本当に尊敬できる師を持ちたいが、大衆社会にはそうそう見あたらない。どうしてこんなにみな現代のオトナは幼いのだろうか? どうして商人の道徳(というより、単なる技術)を信仰してしまうのだろうか? 義務教育が悪かったんだろうな。それは確かに原因のひとつだ。みんな金と生活の維持だけに気を取られて、天上のことに関心をもっていない。盲目である。そんな連中に囲まれていたらおれの気も狂うさ。本当に同じ人間なのか疑わしくなってくる。
 おれは寝るか食うか苦役に縛られるか、あるいは書くか。その4つだ。4つで生活を構成しよう。寝るのは大事だ。食うのも重要だ。苦役は生活を維持するために仕方あるまい。書くことはおれの自由のための肝だ。
 付き合いたくない人と付き合う必要はないのだ。人は後天的な教育で変わることができるが、おれはおれの苦手とする連中が後天的な変化をするのを待つ義理をもっていない。ゆえにおれは嫌な連中からは距離を置く。
 あとは希望を持って待つだけだ。「待て、しかして希望せよ!」。
 おれの望む自由な暮らしが始まれば、あらゆる景色がいまとは違ったように見えるだろうな。
 計画を立てよう。2ヶ月に1作品は仕上げたいところだ。弾数を増やすのがなによりも肝要だとおれは思っている。省察はもう十分だ。反省はその都度やればいい。残るは行動だ。

おれのシリアスなことについて 2017/6/27

 いや、きょうはシリアスな気分だったが、読み返せば昨日の日記、実に愉快だな。真実に満ち満ちているよ。確認しておくが、おれは奴隷じゃなくて自由の身だ。いまは望んで奴隷になっているだけで、自由民になろうと思えばいつでもなれる点で古代に比べて恵まれているのだ。辞めて、ホームレスでもなんでもすればいいじゃないか。ちょっと貯金をしよう。12月まで貯金して、それから身の振り方を改めて考えよう。10万貯まるか分からないが、そのくらいあればきっと新小岩を飛び出すことはできよう。無理矢理受けさせられた研修の費用は12月まで勤め上げればチャラになる。だから30年の1月に仕事を辞める。それもひとつの選択肢だ。入院するのもいい。休職してから辞めるのもいいな。すべておれは誰かの指図を受けるのではなく、自分で考えて計画して行動していいのだ。そのやり方にまだ馴れていないところがあるな。指示を待っている感がある。そうではないのだ。おれはあくまで自由だ。望んで奴隷のまねごとをしているだけだ。それも一時的なものだ。おれはビジネスマンなんていう奴隷にはならない。確かなことだろう、これは。これからは米と味噌を食べよう。節約をしよう。●に行くのはやめだ。出不精になろう。そう●の誘いに乗り続けることもない。●だのなんだのでつまらない出費が増えていくだけだ。ラインは無視すればそれでいい。おれはメール無精だ。なにも良心を痛めることはない。●が悪いわけでも憎いわけでもない。ただ、おれはそういう決定に関してどこまでも自由なんだ。その自由を行使した結果失うものがあるなら、それはきっとはじめから保有していなかったものなんだ。おれが本当にもっているのは気高い心だ。批判精神だ。システムの不調和を感じ取る心だ。真実の眼だ。放浪時代はルソーにだってあったんだ。おれも放浪して、どこかのNPOに拾われて、そんでなにか易しい職にありつけるかもしれない。望むなら、そこから社会生活を再起するのだって可能だ。
 この時代にこの文章を書く。これは非常に意味があることだ。老人になったおれはこれを読み返して頷いているはずだ。ビジネスの慣習を普遍的な人間の善の態度と錯覚している連中の滑稽さのレポートに、破顔しているはずだ。
 そうだ、おれは古典愛好者の緩やかな連帯に所属している。所属の意識を時折思い出すとしよう。孤独ではないのだ。違和感を感じているのは、反骨精神を抱いているのは、身近にもいるし、遠くにもいる、仲間がいる。いまこの瞬間、どこかの列車の窓際で、岩波文庫を開いた婦人がいる。仲間だ。違和感を抱いているのはおれだけではないはずなんだ。おれよりも聡明な若者はたくさんいる。おれは大学で会ったことがたくさんあるだろう。彼らもまた仲間だ。おれと同じ状況に置かれれば、同じことを考えるに違いないのだ。
 おれは一体全体視野が現在に限られてしまって、シリアスになりすぎるきらいがある。もっと泰然自若として生きよう。DXMでも●でも、キマっている時の精神状態を思い出すことだ。無敵だ。そんな娯楽はまだ消えていない。後者はともかく前者DXMは普通にどこでも売っているのだ。おれにぴったりのかわいい丸薬じゃないか。
 この生活を続けていけばいずれデビューはできるだろうな。足りないのは場数、というか弾数だけだ。世間(出版社)の眼に触れるように作品を公開していないのが悪い。少なくとも年に4作は、おれがそれをどれだけ気に入らなくても応募してみるべきだろう。作っていれば技術も向上してくるし、とにかく前進は悪いことではない、良いことずくめだ。平日だって過労死ラインを超えない程度に残業という名目で執筆をすればいいのだ。Δは無理せずおれの関心のあることだけに絞れば単純明快だ。