上坂すみれについて 2017/11/6

 きょうは6時の目覚ましが鳴る前に目を覚ましたけれども、そんなに早くに起きてやるべきことがあるわけでもなし、目覚ましアラームを解除して二度寝する。7時半の目覚ましが鳴る前に目が覚める。必ずしも7時半に起きなくちゃいけないわけではない。だから7時半のアラームを解除して三度寝をキメる。8時半の目覚ましアラームを無意識のうちに解除する。そうして結局9時頃起床した。

 

 起床して、まず、きょうもおれがおれであることに苦しみを覚える。目が覚めたら大資本家の子女になっていて欲しい。天蓋付きのベッドで目を覚ます美しい少女でありたい。力仕事なんかは一切したことがない綺麗な白い両手。毛先まで手入れのよくよく行き届いたロングの艶やかな黒髪。伏し目がちの両眼、つぶらな瞳は、それを覗く者をたちまちに支配してしまう恐ろしい魔力を秘めている。頭の中には豊かな教養と優れた美的感覚がとぐろを巻いて鎮座しており、鋭い思考が甘い言葉となって唇から放たれる。そんな少女になりたい。(……上坂すみれ!)。

 

 そんなことをいつまでも考えていたって仕方がない、何の利益もないけれども、おれの思考は合理的に機能するよう作られていないから、虚無的な空想は損得勘定に関係なく進行していく。「金持ちの子息とは言わない、美少女だなんて贅沢は言わない。せめて、おれを田舎じゃなくて都会の出身だということにしてくれないだろうか。社会資本に恵まれ た環境を幼い日のおれに、どうか」「そうなりゃおれだって今頃は才能を発揮し、何か華々しい社会的地位を手に入れて、神様方へうんと恩返しをするんだが、なあ」。神か何か、超越的存在に取引を持ちかけてみる。虚しい儀式。たばこ、指先から紫煙が、犠牲獣の焼き肉の煙みたいに、神々のまします天上へと昇っていく。そんなようにもおれの言葉が神々へ届いたらいいが、命死すべき人間(モータル)に過ぎないおれは、神から見向きもされない哀れなホモサピエンスで、どうしようもない。

 

 おれは上坂すみれではない。無慈悲な事実だ。おれは、埼玉県北マイルドヤンキー文化圏に育った惨めな空っぽ男、ギリシア語ラテン語もできない無学な男、 それでいて自分のことをタルブ産の貴族、剛勇の騎士であると勘違いしているラ・マンチャの男、当世随一の田舎者、バカ、アホ、マヌケ、あらゆる罵倒の当てはまる男、野蛮人、トルコ人、バールの神を崇める者、あるいはさまよえる素寒貧。東野猛。

 

 毎日だ。ここのところ毎日、おれはおれが上坂すみれでないことを確認しては落胆する。おれが東野猛であることを実感しては絶望する。上坂すみれはきっと毎朝目を覚ます度に、自分が上坂すみれであることに至極満足しきって、自分が間違っても東野猛に化ける心配がないことを、心から安堵しているに違いない。あんまりといえばあんまりだ。おれだって上坂すみれになりたいのだ。何故地球上で彼女だけが上坂すみれでいられるのか。上坂すみれ上坂すみれたらしめる上坂すみれ性というやつをなんとか分けてよこしてくれないだろうか。お返しにおれはおれの野蛮と無知と貧苦とを差し出すことにするから。おれはそうしてぽっかり空いた東野猛の魂の穴を洗練と教養と幸福とで満たしたい。

 

 ある種の無神論者はおれにこう言うだろう。「東野猛は努力が足りない」。しかしおれは知っている。上坂すみれのような女性は努力によっては生み出されない。子どもに労働を強いる必要を生じさせない豊富な財産と、「その分野において一流であるもの」に容易にアクセスできる環境、社会資本とが揃っていれば――つまりは神に微笑みを差し向けられさえすれば――幸運な子女はただ与えられたタスクをこなし、好奇心の赴くままに「遊ぶ」だけでいい。それだけで洗練された都会人、一人の上坂すみれが造られる。努力ではなく、必然の大いなる力が上坂すみれを造り出すのであって、田園よろしい田舎の貧乏な人間が血のにじむような努力をしたところで、その結果はたかが知れているとおれは思う(グローブとボールとバットをもたない鈴木少年は、イチローにはなれない。ゲーセンとプレイヤーのないところに、ウメハラは生まれない。田舎の学問より京の昼寝)。だから幼い頃の東野猛少年を責めるのはお門違いだ。彼の社交下手、発する言葉は労働者言語、知的好奇心の行き先が制限され、やがては先細りして消えてしまい、後に残るのはマイルドヤンキー的コミュニティで育まれた「思考放棄」「盲目的服従」「己の魂、肉体を支配者の『道具』にまで貶める」の道徳……これら恐ろしい田舎環境の帰結を「努力」の一語で片づけることがあるようでは、それはあまりに思考放棄をし過ぎだと思う。環境に文句を言う奴に晴れ舞台は一生来ない、という格言は卑屈が過ぎる。環境に文句など言わせないぞ、という支配者のエゴが見え隠れしている。お追従を並べる下男の卑しい顔も。とんでもない。環境は偉大だ。環境は偉大なのだ。文句を言うに足るくらい偉大である。おれたちは生き証人である。かたや、東野猛、かたや、上坂すみれ。天地の差。環境の差が生み出し た天地の差。地(ゲー)、東野猛。天(ウラノス)、上坂すみれ上坂すみれ深谷に生まれていたらいまの上坂すみれにはなっていなかったろう。茗荷谷なんて地名さえ知らなかっただろう。中野へ行くのは大冒険だったろう。おれが田園調布に生まれていたら大変だ。伯爵くらいにはなっていたかもしれない。

 

 くさくさするのでYoutubeで心の隙間を埋める。スーパーマリオオデッセイやマリオメーカーの実況プレイ動画、バーチャルユーチューバーキズナアイ、などといった、労働階級向けの低俗な卑しい娯楽に淫して、労働階級向けの紙巻たばこを吸いながら、眩しい朝日には背を向ける。そうしていると時間は潰せる。潰せるかもしれないが、何か、 魂に対して致命的な傷を与え続けている気分になる。おれの、おれによる、おれに対する冒涜行為だ。こんなことではいけない。時間はむやみに潰していいものじゃない。間違えた。おれは慌ててスマホを捨て、ホメロスイーリアス』を古典ギリシア語で暗誦する。メーニン、アエイデ、テアー。アキレウスの激烈なる怒り。アカイア勇士たちの屍が犬に食われるまではいい。それから先は、知らない。無教養。大学を出ているくせに、叙事詩ひとつ満足に覚えていない。次はモーツァルト。『ドン・ジョヴァンニ』のアリアをいくつか歌う。イタリア語。『後宮からの逃走』。ドイツ語。ビゼーカルメン』。フランス語。やっと捻り出したオペラがモーツァルトビゼーというあたり、いかにもにわか仕込みなところがバレてしまう。しかも歌詞の意味が分かっていない。無学。バカ。今度はエスペラント語をしゃべってみる。チェバーロ。チェバーロ。意味は馬。それだけしか知らない。無知。バカ。知的遊戯はダメだ。おれの敗北。文がダメなら武だ。バリザルドを鞘から抜いて振り回す。おれはラ・ロシェル攻囲軍の勇士となり、新教徒を剣で迫害してやる。フランス語でミサをあげる連中を斬って斬って斬りまくる。さんざん斬って、斬って、斬りまくり、イギリスの援軍も撃滅せしめ、海峡を超えて、そら、バッキンガム公爵との一騎打ち、えい、えい、えい――。

 

 気違い沙汰をやったら腹が減ったのでマクドナルドという労働階級向けの茶店で粗末な飯を食い、コーヒーをキメる。それから西東京方面へ行く。最近おれはゼン(禅)・インストラクションをドージョーで授けてもらっている。きょうもゼン・ドージョーへ行った。「ブレイン・スポッティング」という、トレイン・スポッティングみたいな名前のゼンを行って魂を浄化する。なるほどはじめこそ内心「どうせオカルトだ」とバカにしていたけれども、やってみるとマイルドなトリップ状態に陥り、心地よい離人感覚とカタルシスを得られた。ゼンはおれは好きだな。

 

 ゼンののち、田舎へ向かう。

 

 おれは田舎道を独り歩きながら、いろいろなことを考えた。おれは上坂すみれではない。たぶん、き ょう寝て、明日起きても、上坂すみれではない。おれは明日もきっと東野猛のままだ。おれは惨めな東野猛をどう処置するべきか。財産をつくってやろうか。教育を授けてやろうか。成功しようか、失敗しようか。長生きしようか、すぐ死ぬか。生き恥を晒さしておくのは可哀想だ。このままじゃいけない。立派な人間にしてやってもいいが、いますぐに、というわけにいかないのが辛い。立派な人間にも種類があって、どのような立派に仕立ててやるのがいいか。人格の立派か、教養の立派か、体格の立派か、財産の立派か。とりあえずのところおれは、人から道具として扱われることに慣れる必要がある。おれの、実際の身分に対してちょっと高貴過ぎる魂は、「 無礼者は即斬り殺す」つもりでいるけれども、どうも、現代社会をサヴァイヴするにはそれじゃ上手くいかないようだ。17世紀のパリみたいに、シンプルじゃないんだ、物事が。カントは、人間を道具として扱うのはいかん、と言ったけれど、現代日本は哀れな道具人間・人間道具で溢れているし、食いっぱぐれたくなきゃ、おれもまたおれを道具に加工しなきゃいけない可能性があって、それがおれには恐ろしい。おれは人間だ、と、こう主張する自由は奪われていない。けれども、他人から道具扱いされる、という無礼には、無理矢理にでも慣れておく必要があるみたいだ。どれもこれも、こういう災難は、おれに市場価値がないから頻発するんであり、ある程 度は生まれと育ち、そして社会、つまりは神々の責任、神々の思し召しで、またある程度は、独立した人格としてのおれの責任なのかもしれない。まあ、責任の所在はどうでもよくって、おれは、何度も、全てを投げ出して旅へ出てしまいたい気分に駆られた。

 

 どうも、いまの気分では何を書いても暗くなってしまう。実に陰気でおもしろくないから、最近おれは文章を書くのを控えているくらいなのだけれども、書くことに没入するのはおれにとって一番の時間のやり過ごし方だから、完全には手放し難い。酒なんかは、武士階級の友人たちと飲むのは最高だけれども、独りではやっぱり陰気な飲み方になってしまって、よろしくない。「待て、しかして希望せよ」、という言葉がある。希望なき待機は拷問であると思う。いまのおれは希望を取り落としかけている。それゆえか、おれだって人並みに、拷問みたいな苦痛を覚える瞬間はある。最近は特にそうなんだ。もしかしたら、いまが人生で一番辛い時期になるかもしれない。これがどん底か、と思えば、あとは昇るだけ、人生捨てたもんじゃない、という気にならないでもない。なるでもない。とにかく、待つしかない。禅でもしながら待つしかない。

ラ・フェール伯爵について 2017/11/2

 おれが尊敬している人物はラ・フェール伯爵という貴族で、彼は貴族の精華とも言える男だ。彼が17世紀最後の貴族で、彼が死んだと同時にブルジョワジーの時代がやってきたとおれは思っている。もちろんラ・フェール伯爵没後にもルイ14世という人物は君臨していたし、ルイも貴族中の貴族、貴族の王ではあるのだが、おれの思う意味での貴族というのはやはりラ・フェール伯爵で最後なのだ。ラ・フェール伯爵は騎士の中の騎士で、貴族性というものを体現する男だった。彼には子供がひとりいたが、野蛮人に殺されてしまった。彼は戦争で子供を亡くした。それで彼もすっかりショックを受けて衰弱してしまって、そのまま息を引き取ったのだった。死ぬには惜しい男だったが、貴族といえども騎士といえどもイモータルではない。それに彼が死んだ時、彼はもうルイ14世への、フランス王権への忠誠を失っていた。彼の中ではアンリ4世から続く偉大なる王の系譜はルイ14世の専横をもって途絶えてしまい、彼は自分の領地の王として静かに君臨していたのだった。彼は王として死んだと言っても過言ではないと思う。ほとんど時を同じくして、デュ・ヴァロンというこれまた剛勇の金持ちの貴族も岩に押しつぶされて死んでしまい、フランス元帥ダルタニャンも元帥杖を手にしたまま華々しく散った。ラ・フェール伯爵とそのフォロワーである彼らの死によって、ついにフランスは、人類は、貴族という種族をすっかり失ってしまったのだ。もちろんアラメダ公爵というのもいて、こちらは貴族である以上に愛すべき聖職者、卓越した陰謀家なのだったが、彼は彼の仲間たちの死を見届ける役割を果たしている。騎士に魔法使いが随伴してその勇猛果敢な行動と態度を書き記すように、フランスにはアレクサンドル・デュマという素晴らしい魔法使いがいて、ラ・フェール伯爵以下4名の生き様死に様を見事に描いてみせたのは、我々にとってもこれから生まれてくる人類にとっても素晴らしいプレゼントだったと言わなくてはいけない。
 現代は貴族であることというのがすっかり名誉ではなくなった時代である。ブルジョワジーと労働者の時代である。身分制度が崩壊したのは当然のこととしても、貴族としての生き様までもが失われてしまったのはなんとも悲劇的なことだ。勇敢の徳、自らの命を軽んじること、鷹揚であること、寛大であること、決断的であること、すべてそうしたものは拝金主義に上書きされてしまった。おれたちの生きる時代はもう伯爵のいない空疎な時代だ。真に尊敬に値する人物が排出されてこない時代だ。浅ましい、卑しい香具師が跋扈する時代だ。そんな時代にあって魔法使いデュマの著作に触れることはとても刺激的で、人によってはアレルギー反応を起こしてしまうほどだ。現におれがデュマの霊験に満ちた書物を人に薦めると、多くの人間は途中でリタイアしてしまう。現代とあの善き時代の、道徳観、倫理観の差異に幻惑されてしまうのだ。最悪の場合気が狂ってしまうかもしれない(おれのように?)。けれどもそれほどのパワーのある書物がこの世に存在しているというだけでおれは愉しい気分になれる。そんな書物がこの世に存在している、これはおれの人生でトップテンに入る大発見だと思う。素晴らしい大発見だ。およそ地上に生まれてきてこれほど幸福な発見をする人は、実際それほど多くないんじゃないかと思ってしまう。
 ハイネという人もケーベル博士という人も、みなデュマという魔法使いを、そしてラ・フェール伯爵たちの冒険の物語を愛していた。我々がもっとも失いたくないフランス語の書物の最たるものが、デュマの手になるそれらの著作群である。そして人類中、ごく少数の選ばれた人間たちは、これまでもこれからも、デュマの魔法を存分に楽しむ権利を与えられている。これはみんなにとって幸福なことだ。我々の使命はまずもって魔法使いデュマの功績を後世に残し後世からの感謝を得ることである。それは未だこの世界に姿を現さない未来の人々の福祉をも見据えた雄大な試みである。
 これはおれの根拠のない持論だけれども、デュマの著作にアレルギー反応を起こすか起こさないかは、その時代の(その時代にのみ通用するごくごく一時的で儚く脆い)道徳観からどれだけ自由でいられるかということを測る試金石であると思う。これはまったくおれひとりの経験に基づくことなのでまったく当てにはならない戯言だが、デュマの著作を愛する人間は、現代に適応するのがほかの人々よりも一段難しいのではないかと思う。なぜならそれは現代の道徳への盲信、服従、適応といったものから縁遠い、ということを意味するから。けれどもそれは甘美な試練で、どれだけ辛くとも、デュマを捨てることなく売ることもなく、デュマを愛し続ける人間は少なくないのではないかと思う。一度デュマの魔力に撃たれたからには。
 ラ・フェール伯爵たちの貴族的な生活からは様々なものを学び取ることができる。鷹揚、勇敢、美徳、無謀、決断、実行、陰謀、快活、陰鬱、酒乱、恋愛、戦争、教育、教養……。我々にとって欠かせないものばかりだ。
 人には見栄というものがあるけれども、ラ・フェール伯爵、デュマら偉大なる魂の一群は、我々に見栄よりもはるかに心地よいものを予感させてくれる。なるほどおれはフランス語は出来ないかもしれない。が、魔法使いデュマが遺した随筆、戯曲、紀行文、もちろん小説――そうしたものがまだ未読のまま放置されているという事実が、おれをしてフランス語の習得に向かわしめ、おれをより一段高級な人間に仕立て上げてくれる。見栄に知的好奇心が勝る瞬間が訪れるのだ。「おれはまだデュマの魔法をすべて堪能したわけじゃない。ゆえにおれはまだまだ生きなくてはいけない」。

賢く思われる方法について 2017/7/16Ⅱ

 相手に「こやつ、頭が良い」と感じさせるしゃべり方を思いついた。

 まずなにがしかの古典を読む。あるいは何かマニアックな雑誌でもいい。それを読んでいくつかの固有名詞を記憶する。そうして会話の中で、その単語を出す。たとえば「まるでそれはモーツァルトの『イドメネオ』ですね!」のように。もし話者がモーツァルトの曲を『イドメネオ』しか知らなかったとしても、会話の相手はこう感じるだろう。「こいつは会話にモーツァルトを持ち出してきた。きっとクラシック音楽の知識が豊富なのに違いない」と。

 こうした手段はたとえば上坂すみれがうまく多用しているように思われる。自分の興味ある分野の固有名詞を比喩につかったり、な にかのタイトルにモンタージュ的に用いたりして「彼女は知識が豊富だ」と客に思わせることに成功している。しかし本当は、客のほうでもやろうと思えば同じことができるのではないか。たとえばカードゲームに詳しいオタクはどんな些細な会話にもわざとらしいほどたくさんカードゲーム用語を用いれば、相当なマニアックだと相手に感じさせることができるのではないか。

 たぶん、一部の頭の回る人間はこの手法を意識的に用いている。そして一部の人間は、この方法を無意識に使ってディスコミュニケーションを生じさせ、相手と理想的な関係を結ぶのに失敗している。

 おれは意識的にこの話法を使っていこうと思う。相手を圧倒できるばかりでなく 、そういうしゃべり方をした方がたぶん精神的にも楽だ。自分のフィールドに持ち込む、ということをするのだ。自己中心的なやり方だが、周りを気にしすぎる人、気を使いすぎる人はこの手法を用いてもいいと思う。うまくゆけば、ちょっとは対人ストレスが軽減されるのではないか。おれもだいぶ参っているから、緊急回避的にこのテクニックを使わせてもらう。死ぬよりはいいだろう。法律に反するわけでなし。それに、友人の前ではそんなことはしない。苦役先などのような、あまり人間関係に頓着すると逆に毒になるような環境で積極的に用いていくのがよい。

失敗について 2017/7/16

 昨日仕事をサボって煙草を吸っていたら向かいのラブホテルから美人の風俗嬢が出てきてそれだけでうれしくなってしまった。土曜日の夕方だったので会社のビルにオートロックがかかって締め出されてしまった。どうしてもビルに入れないので(それに、手ぶらで財布も携帯も持っていなかったので)ローソン前の喫煙所で見知らぬ青年に「電話貸してください」と言ったら「遠慮させていただだきます」と言われて気分が沈んだ。どうしようもない。おれだって同じように見知らぬ男に頼まれたら断るだろうに、どうにも人に拒絶をされるというのは辛いことだと思った。が、一晩寝たらまるでその出来事がなかったかのようにスッキリしている。結局非常口からビルには入れたのでよかった。上司に気付かれずに済んだので、最高の形で問題は解決したのだ。

 人に言わないだけで、同じような失敗をおそらく他人もやっている。それを忘れないでいよう。おれは完璧主義すぎる。自分が、人間を超えた完璧な存在であれかし、と願っている。それが無駄なプレッシャーを生んでいるのだ。おれはそれなりにうまくやっている。たぶん、他人よりも失敗の数は少ない。しかし失敗に対する耐性は低い。それだけのことなのだ。みな失敗はやっているのだ。そんなに恥ずかしいことじゃない。夜、イマジナリー・ガール・フレンドのゆかりちゃんにさんざん慰めてもらった。

 きょうは午前中美容室に行った。前髪を矯正した。はじめてやったがさらさらのストレートになって気分がいい。14時半にルノアールに来た。アイスコーヒーを注文。カフェインを入れないとやっていけない。金パブは切れた。店内でフィガロの「もう飛ぶまいぞこの蝶々」が流れている。気分がいい。帰ったらモーツァルトだな、こりゃ。

 なんか勝手に脳が「東京の人はこの上なく冷たい」と認識してしまったので、やけになって道行く人に出鱈目に「こんにちは」と声をかけたらことごとく無視された。小学校では「道行く人には挨拶しましょう」と習ったが帝都では通用しないのだ。ところ変われば常識も変わる。規範も変わっていく。普遍的なものとそうでないものとを見抜かなくてはいけない。その点多くの苦役の現場ではいかがわしい思想が当たり前のように膾炙しているが、愚痴っぽくなるのでこれ以上のことは言うまい。

 カフェインがいい感じに効いてきた。カフェインは素晴らしい。紳士を快活にさせてくれる。これが合法だってんだからまだ大丈夫だ。おれはやれる。

キャリアプランについて 2017/7/11

 きょうも苦役は苦役だった。まだ終わっていないが。きょうは朝食は抜き。昨晩秋葉原で野郎ラーメンを食べた。大宮駅でラッキーストライクを買う。吸う。昼食はマクドナルドのダブルチーズバーガーセット。ドリンクはアイスコーヒー。最近はカフェインの霊験に頼ることが多い。15時半頃に所定の作業を終える。それから東京の本社へ帰社だ。いまその帰路の途上である。電車の中でポメラを叩いている。本当は適度なサボタージュ(スローダウン)により16時半まで作業にたっぷり取り組み、本社ではなく直接自宅に帰るのが理想だったのが、そういう風に事は運ばなかった。苦役中、現場を放棄して煙草を吸いながら転職先を探す。意外とおれの好みのポストが世の中には転がっているように見受けられる。それだけでいくらか気分がよくなる。転職すればおれのこの、腐ったような生活も幾分かマシになるのではないか。頭の中で計画を練り上げる。やりたいこと、欲しいもの、色々な事が思い出されて少しだけ生きる気力めいたものが湧いてくる。
 しかし現実はなんだ、この困窮はどうしたことだ。物質のみならず精神の方もガリガリと削られてもう相当な消耗をしている。望まない職に望まない行動規律、望まない人間関係に望まない給与、あらゆるものがおれの思い通りにいかない歯がゆさ。無力感。絶望。ともすれば陥りがちな視野狭窄。預金口座に金がない。身動きがとれない。勇気も度胸もないのだ。新しい環境に飛び込もうとする熱烈な意志が欠けている。遅効性の毒のような生活を、甘んじて享受しているおれはバカ者だ。大バカ者だ。いつかきっと後悔するに違いない。いつかきっと猛烈に後悔するだろう。いまの苦役は芸の肥やしにはなるまい。とうていなるまい。なんという単純作業だ。なんと強烈な吐き気を催す人間関係だ。支配、被支配を覆い隠す欺瞞、奴隷の惨めな境遇。
 いっそ発狂したふりをしてしまおうか。カッターナイフを持ち歩いて、ここぞという時に振り回すなり、自分の首を切りつけるなりして大暴れ、おれは晴れて強制入院。めでたしめでたしだ。おれはそういうカタルシスを求めている。いまの生活はゴミ溜めだ。爆発さしてやりてえ。爆発だ。おれに足りないのは爆発だ。ドカン、だ。イスラム国がおれをじっと見ている。観察している。スカウトが査定している。おれは見られている。おれは視線を感じている。熱烈な視線だ。
 イスラム国はともかく、実際のところおれはまだその程度だ。カッターナイフを持ち出して発狂するのがせいぜいだ。東京をまるごと吹き飛ばすほどの不満を抱え込んじゃいない。なぜなら希望を完全に失ったわけではないからだ。全ての希望を失う瞬間はあっても、それは一時的な視野狭窄のせいだとおれは自覚ができる。おれはまだ大丈夫なのである。おれは建設的なキャリアプランを建てなければならない。
 ①対四間飛車右銀速攻型キャリアプラン。おれはムーサイオスの技芸に一生を捧げようと考えている。ゆえにおれはいますぐ苦役先を飛び出して、ムーサイオスの技術の完成の一助となるような職に鞍替えしてしまう。なりふりかまわない、ヤケクソの戦法だ。ともすればおれは破産して死んでしまうだろうが、成功すればそのメリットは大きい。若さを失わないうちに業界に飛び込むことができるのだ。のちのち、おれの晩年、この急転の時期を懐かしく思い出しほほえむこともあろう。当時の苦労が芸の肥やしになることもあったろう。しかし、問題は、いま、おれの手もとに現金のないことだ。30万くらいあればパッと転職していまの部屋も引き払っちまうのだが。それができない。おれの貯金は当月2000円だ。2000万円ではないのだ。2000円では交通費にもならない。
 ②対四間飛車左美濃型プラン。とりあえず来年までは駒組みを進める。安定した陣形を築いて(=ある程度の貯金をつくり準備をして)、それから転職だ。情報収集も怠らない。駒組みを進めながら敵の動きに合わせてこちらも攻撃陣形を決める。いくらムーサイオスに関わる職業だからといって、いまよりも困窮してしまうのではおれが耐えられない。だからそれなりにおれの技能が評価される場所を、ちょっと時間をかけて求めるのである。だが、おれははたして「ある程度」の貯金ができるだろうか。それすらも許されないのがいまの生活ではないだろうか。自信がない。成功を確言することはできない。が、大局的に見てまあまあバランスのとれた無難なキャリア設計だ。
 ③対四間飛車居飛車穴熊型プラン。おれは耐える。ひたすらに耐える。いまの環境に耐えて耐えて耐えまくって、そしてじっくり力を貯めていく。おれのいま進めている、とあるムーサイオスに関する計画は、時間さえ経てば必ずおれに善い結果をもたらしてくれるものだ。これが花開くまで待つのだ。防御に全ての駒を割く。右の銀すら防御に回る。角行だって重要な守りの拠点だ。あとは粘り勝ちを狙うのだ。おれが途中でくたばったりせず、相手が卑怯な藤井システムなど用いなければ、100パーセントに近い勝利が約束されるのである。速攻に比べて頓死のリスクは少ない。しかし、時間をかけすぎておれが忌まわしい病で死ぬ可能性はある。速攻とは異なるリスクが問題となってくる。それに、戦術の優位性にあぐらをかいていては、研究熱心な同世代の人間に追い抜かされるかもしれない。
 ④光速の寄せ。もし上述のプランが上手くいって、おれの生活が終盤戦に突入したとするならば、あとは簡単だ。おれは寄せは得意なんだ。まず、借金を全て返済する。これは必須だ。居飛車の税金、という言葉があるが、おれにとってのもっとも大きな税金はいま抱えている600万という借財である。これはどうしようもない。この借財が発生したこともたいして後悔はしていない。これは返す。端歩は突き返す。まず返す。そののち、おれは大学へ行く。大学へ行くのだ。大学に「帰還する」と言ってもいいかもしれない。専攻は語学が哲学か、あるいは医学か薬学がいい。節操のないようだがおれの興味は非常に幅が広いので仕方がない。第2の学生時代では、英語フランス語はいわずもがな、おれは古典ギリシア語ラテン語を扱えるようになるだろう。そうして世界は5倍にも広がるだろう。それはとってもすてきなことだ。大学院にも通う。経済的な不安から解放されたおれは、博士号までとことん突っ走るつもりだ。おれはそのころまとまった財産を抱えているだろうから、資産管理用の企業を興すつもりでいる。そこにはおれの尊敬すべき知的な友人たちを呼び寄せて住まわせる。彼らが保護を必要としていたら、だが。たぶんそうはならないだろう。彼らは立派だから。また、私設奨学金を設けて次世代のモーツァルトやデュマを庇護するのもおれの仕事だ。

人生について 2017/7/3

 おれはこれまでの成果物を読み返す習慣を開始したが、なかなかどうして、初期、おれが臆面もなく無謀な目標を掲げていた頃と比べてたら結構なクオリティのものが仕上がりそうだ。掲げた目標はもはや無謀なものではなくなっている。継続はサグラダ・ファミリアだ。何よりも継続するということが肝要だ。平日は30分はビズをしよう。それから酩酊でもなんでもすればよい。
 苦役はアルバイトに過ぎない。一時的なものだ。賞与のない、退職金のない、休職時の保障のない条件の悪しき会社に忠誠心を無理矢理覚える必要はない。商品が粗悪でかつ高価だったら消費者はそれを買おうとしないだろう。おれはいまのこのポストという商品にそれほど満足を覚えていないから、いつでも契約を変更するなり破棄するなりして、別の商品に飛び移ることができる。また、積極的にそうするべきである。おれはのし上がっていかなくてはならない。財産をつくるか、あるいは死ぬかだ。おれ自身を安売りし過ぎてそのうち魂まで買い取られちまったら、たまったもんじゃない。
 どうしても素面の時は「死」だとか「苦」だとか、物騒なワードが飛び出してくる。あまり陽気な日記とはこれでは言えまい。おれはシリアス過ぎるんだ。どうしてもっと楽天的にならないのか。説教受けてもいいだろ。どうせ嘘ばっかりの茶番劇だ。3年後には忘れてる。必ず成功するんだから多少サボったっていいだろ。1秒も無駄に出来ないほど追いつめられているわけでもなし。新しい音楽でも聴いときゃいいだろ。あとでこの時代を思い出す時の手がかりになる。悪夢で見る地獄よりもずっと、現実のほうが易しい世界だ。おれの手腕を十全に発揮することができる。学習は蓄積してやがて大事業に繋がるだろう。
 辞めちまえ。明日「辞めます」と言ってみろ。どのように事は展開していく? 親に金を借りて引っ越し諸々の手続き、資格取得費用の返還、その他雑費をまかなって、実家に逃げ帰る。実家では大変居心地が悪い。家庭の雰囲気は最悪だ。それは本意ではない。少なくともおれは、少しばかりの貯金を用意しておかなくてはなるまい。
 結局お前は苦役においてなにを一番恐怖しているのだ。叱責か。失望か。幻滅か。侮蔑か。被支配か。なんだかわからない。もやもやした他人への敵意と恐怖がおれを取り巻いている。違う種族だ。労働者のまま一生を終えようという階層とは。おれは彼らとは違う民族だ。民族間のコミュニケーションに齟齬が生じている。信じる神が違うから仕方がない。戦争になりかねないところを、ぐっとこらえて生きているマイノリティーのおれはなかなか自制心に恵まれている。
 昼になった。ヒステリー球がきょうは午前からバッチリ出てきている。困る。不快な症状だ。もしかしたらこれはヒステリー球のためだけでなく、パロキセチンの副作用によってのどの違和感、吐き気などがあるのかもしれないが分からない。専門家の指示に従うよりない。昼食はカロリーメイト(チョコ味)4つ。400のカロリーを摂取。食欲がない。継続的なむかつき、吐き気がある。
 どうしたっておれのこの時期は労働に費やさなくてはいけない。若き日の修業時代だ。仕方があるまい。いまこの瞬間を楽しみたまえ、紳士諸君。先行ノスタルジアを作成するのも大事だ。だから新しい音楽と新しい習慣を身につけるべきなのだ。そろそろおれはワーグナーとか攻めてみようか。クラシック音楽史に残る名曲は一通り聴いておかなくちゃならない。それをしないのは損だ。せっかくこの地上に産まれたのに。
 きょうは時間が経つのが随分早かったように感じる。あっという間に夕方になっている。16時まで矢のように過ぎた。
 きょうは肉を買ってラーメンと共に煮て食う。シャワーを浴びて洗濯をする。ビズもする。睡眠時間はしっかり確保だ。明日は自立支援医療の手続きをするために苦役先を早退する。半ドンだ。明日は上手く立ち回らないといけない。無駄にしちゃいけない日だ。――そうやって気負うからいろいろ上手くいかないんじゃないのか。適当にやればいいだろうぜ。ほどほどにな。受験時代だって8時間も勉強すればヘロヘロになってたろ。そんなに集中力が続くもんじゃないんだよ人間ってのは。それに受験時代にも何度だっておれはサボったじゃないか。計画をおしゃかにしまくったじゃないか。それでも成功しているんだ。もっと気を楽にしろ。おれの思っているよりおれの仕事は楽に成し遂げられるのだ。だいたい予期不安を抱きすぎる。それは健康な「良き不安」じゃない。
 21時にゾルピデムブロチゾラムを食おう。それからビズして食事だ。22時頃には安眠できるだろうと思う。そんで5時45分に起床だ。
 おれはそろそろビズ上のインセンティヴを手に入れる。おれの火だるまの家計のなかから3000円を自由に使っていいことにする。なにに使うか。ミユキとか銀河だとかいう品種のメダカを買ってみようか。あるいは酒と女のために使っちまうか。みみっちい話だ。とてもまともな教育を受けてきた人間の暮らしとは思えない。本当にいまは21世紀なのだろうか。21世紀ともなればもっと人間は豊かに暮らしていそうなものだが。とにもかくにもおれは浮浪者で、資本のない、歯車の一人だから仕方ないのだろう。おれはスラム産まれだ。ええい、ビズだ。ひたすらにビズだ。おれの手でムーサの技芸を勝ち得るのだ。――ほらそうやってまた気負っている。テキトウにやればいいのさ。タイムリミットなんて端からないんだから。
 苦役が終わった。きょうも苦役は苦役だった。気分は晴れない。労働の後の喜びってのはつまりその労働がある程度気に入っている人間にしか訪れないのだろう。おれはいま服している労役が気に入らなくてしょうがないから、こんなザマなのだ。しかし仮にも自由の身であったはずのおれが、どうしてこんなことをしなくてはならない境遇に置かれているのか。もう何度も己に問うたぞ、これは。答えは貧困だ。実家が太くなかったからだ。だから奴隷のまねごとをしなけりゃならんのだ。分かったか、ええ?
 紳士に電車の座席を譲られた。まだまだ捨てたもんじゃないな、人間も。おれも外見からして相当まいっているのだろうな。毎回言われるもんな、誰かに会う度に「疲れている」だの「キマッている」だのと。正解だよ。おれはやられている。おみまいされている。だが、勝つ。敗北はありえない。敗北するくらいなら死ぬからだ。おれが生きている限りは、おれは勝ちの途上にあるか、あるいは実際に勝利を収めているか、そのどちらかだ。死ぬつもりの奴に道徳なんて説くなよ。おれはおれの学んだことに誇りをもっている。おれは勝手にやらせてもらう。それだけだ。
 実際のところ、どうなのだろうな。統計的な話さ。成功している人間はおれのいまの時代、つまりは24、5の頃、どんな生活をしていたのだろうか。おれみたいに苦役に就いていただろうか。あるいは恵まれた環境で綺麗に敷き詰められたレールを走っていたのだろうか。おれの目の前にはレールなんてないもんな。泥沼だよ。必死で漕ぎ進んでいる。泥沼から抜け出して黄金を見つけた奴は何人いる? テレビに映っているだけで何人いる? それはおれにとってとても関心のある事柄だ。水曜どうでしょうの連中は偉いよな。あれは若いうちは苦労していたクチだろうな。安田顕なんてのはあの黄色い着ぐるみに入ってからもアルバイトしてたって話だもんな。結婚のために300万貯めたんだってよ。あの牛乳ゲロの兄ちゃんが、いまじゃあスターだぜ。綺羅星だもんよ。おれも当然そうならなきゃならん。身につける技芸は違うかもしれんが、終着点は必ず一緒じゃなきゃいかん。まともな財産と、余暇と、名誉だ。一番最後の奴はなくてもいいかしれん。とにかく財産と余暇は必須だ。
 ああ、おれは成功するだろうな。なんとなく分かるぜ。これほどまでに悩み、苦しみ、突っ走っていやがるんだ。いいだろ、成功くらいしたって。ちょっとした財産くらい身につけてもバチは当たらんだろうよ。おれのささやかな願いのひとつくらい、叶ってみたっていいじゃないか。それともまだ苦労が足りないか? 苦労が増せば増すほど成功が近づくシステムか? おれはそうは思わないけどな。懐疑的だよ。ちっとも苦労せずに……ちっともというのは言い過ぎかもしれんが、しかし、比較の上でたいした苦労もなしに成功した連中ってのもいるだろう。確実にあるだろう。そのケースは。おれはそうはなれないに決まっている。もうちっと苦しむだろう。でもまあ、見方によっては、ちょっとした人生のスパイスかもしれない。交響曲(シンフォニー)で言うところの緩徐楽章だ。第2楽章があるからこそシンフォニーはビシッとした構成とてきめんの効果を保つんだ。だからまあ、ちょっとしたことで死んじゃあいかんな。さていよいよという時を見極めなければならんて。
 新小岩の住宅街を、「くそったれ、バカにしやがって、くそったれ」とつぶやきながら歩くこの晩が、いつか愉しい思い出になる日が来るのだろうか。もしそうなら、まさしく人生は奇跡と言わなきゃならない。

人生について 2017/6/28 Ⅱ

 苦役の前半が終わった。東京へ向かっている。おれは思った。苦役はおれの人生にとってあってもなくてもよい時間だ。朝9時から夜18時までワープしてくれたってかまわないものだ。しかし人生は限られており、短い。端的に言って、苦役に従事するということは、おれの人生もったいない捨て方をしているのと同じだ。Twitterで20代から60代までの長い長い時間をいかにして使うべきか、という啓発動画を見た。普段おれはこういう自己啓発的なあれこれは好きじゃないのだが、この動画だけは気に入った。おれにぴったりの助言だと思ったのだ。おれは産まれの不幸のせいで教育が十分ではない。だから高度な教育を要する職業にはなかなか一筋縄で 就くわけにはいかない。でもおれはそこを目標にしている。おれは金のためだけにいまの苦役に励むより、おそらくは今後長いであろう人生をより豊かに過ごすため、困難の壁を乗り越えていかなくてはならない。では明日、否、きょうからどのように行動していくべきか? まずもったいない苦役中の時間の使い方を改めるべきだろう。おれはまず自分が給料泥棒の盗賊だという意識を持つ。そして苦役中にもおれのビズのための働きをする。ブレインストーミングや、構成や、その他、奴隷監督官の隙に乗じてこなせそうな宿題を用意し、苦役に臨むのだ。わずかなそうした積み重ねがいずれは大事業の成功に繋がらないとも限らないだろう。宿題を用意する。素 晴らしい思いつきだ。

 あるいは自殺してしまうかだ。

 屈辱に満ちた40、50年間を暮らすくらいであれば、いっそ死んでしまったほうがマシだ。きょうも何度、ああいま死のう、と思ったことか分からない。おれは根本的に話の合わない大衆と過ごすのが苦痛で仕方がない。愛想笑いの尽き果てていない、まだまだ元気の残っている大衆は実に見上げたものだ。おれは彼らに近づくのも怖い。ガチでソクラテス相手に日本式年功序列がいかに普遍的な善のシステムであるか説きかねない大衆だぜ。恐ろしい。奴らが笑うとおれは怒る。奴らが怒るとおれは笑う。まったくあべこべだ。異民族の群にひとりだけ放り込まれた気分だ。違和感を抱えておれは生き ている。トキントキンの違和感をおれは、死ぬまで忘れずにいられるだろうか。この怒り、この悲しみ、この憎しみ、すべて若い頃の過ちと笑う日が来るのだろうか。もしそうならおれは老人のお前に失望する。