他罰的なことについて 2017/5/5 Ⅱ

  おれははたして他罰的な人間なのであろうか。そう言われてみれば(別に誰から言われたわけでもないのだが)、そんな気もする。これはおれの思考の癖だが、過去のおれの選択は決して間違っていなかったと解釈したがることがままある。おれは就職活動で大失敗をした。原因は分かりきっている。就職活動を忌避してスタートダッシュをスルーしたこと。就活をはじめた時期は仲間と比べて数ヶ月遅れていた。むしろ積極的に情報収集を軽蔑して、あえて就活に関する話題が自分の耳に入ってこないよう努力していた形跡さえ認められる。そして渋々臨んだ面接でも、面接官の奴隷じみたスーツ姿をニヤニヤ眺めながら(おれもリクルートスーツ着ているのに!)「おれは正直なところ働きたくないんですよね。はたしてサラリーマンがおれの望む生活手段かどうか、疑っています」と公言してはばからなかった。優良企業の最終面接でもそのような体たらくであったから、当然企業側としてはおれのような無頼漢を採用しようとはしなかった。
 そしてそんな態度を、おれは後悔していないのだ。後悔していないどころかおれとしては当然で素直な、正当な振る舞いであったと解釈しているし、おれの実力、能力を見抜けなかった企業を間抜け呼ばわりする始末。罪は企業にあると主張して止まないのだ。これでおれは企業の面接官の眼を節穴呼ばわりしている。
 そしていざ就職活動シーズン終盤、唯一おれを採用してみせた企業に対しては、その劣悪な研修制度を憎んで10日で辞職するというとんでもない迷惑をふっかけてやった。またしてもおれはこの行為を後悔していない。もっともその研修は法に照らしても明らかにイリーガルであったし、社風その他社内の制度にも不満、いや、不正義があったと確信している。
 再就職先は、在学中のおれからしたらとても考えられないようなレベルの環境で、またしてもその低俗さをおれは企業の罪に帰している。それでいておれは自分が悪いとはちっとも思っていない。
 ――「社会不適合者」。いかにもおれにぴったりなレッテルではないか? おれはなんという蛮族、時代にそぐわない愚か者の類なのだろう!
 やっぱり今日現在でも、おれはおれのこれまでの選択を後悔するどころか、ひとかけらの間違いもなかったと考えている! 悪いのは社会だ、世間だ、大衆だ! 決しておれではない! おれはいつでもできうるかぎり最善の選択をしてきた!
 チューインガムを噛みながら、おれはいつでも毒づいている。生意気な子供(ガキ)と罵ればいい。おれは懐にナイフを忍ばせている。おれにはいつも少年の詩が聞こえている。ナイフを持って立っている。
 考えてもみて欲しい。たった200年前までは、満員電車のなかでよくあるように、他人の靴を踏むような些細な無礼を犯すだけで、しばしば命の取り合いに発展したものだ。寺田寅彦も随筆にそう書いている。『ダルタニャン物語』も、『モンテ・クリスト伯爵』もそんな時代の物語だ。いま、俗世間に見られるような侮辱、無礼、そうしたものは簡単には行えなかった。剣とピストルとお互い携帯していたためだ。なんだか21世紀の現在にあって、おれだけがそんな時代に取り残されたような孤独を感じる。どうして奴らはおれをそう簡単に侮辱できるのだろう? おれの殺気にまるで無感覚なのだろうか?
 ……というわけで、おれは人一倍、いや十倍も百倍も他罰的な人間なのかもしれない。その最終的な判断は読者に(=これらの記事を読み返すであろう未来のおれに)委ねる。