常識について 2017/5/6

 きょうは新聞配達の音で目が覚めた。4時10分くらいには起床してしまった。枕元に用意したストロングコーヒーを胃に流し込んでゴキゲンだ。下痢が止まらない。急性胃腸炎の症状とそう変わらない酷さだ。これは酒のせいだろう。あるいはもう一か月くらい洗っていない雑菌だらけのコップを使っているせいかもしれない。とりあえず後者が原因の可能性も捨てきれないのでコップは廃棄した。コップといってもマクドナルドのLサイズの紙カップを二重にしたものだ。これは霊験あらたかな飲料「シィズアープ」に用いる、ダブルカップというやつをリスペクトして用いていたものだ。おれは酷い咳だぜ。コデインをお願いします、ってなわけだ。分かる人には分かるだろう。

 朝食にはローソンで買ったバナナを8本食べた。ハサミを紛失していたのでこれもローソンで買った。鼻毛をざくざく切る。日常の雑事をこなす。ワンアクションごとにメダカの奴らにエサを与えてやる。可愛い奴らだ。能天気についばんでいやがる。こいつらには死という観念がないのだろう。労働をする必要がない。支配も被支配もない。それだけでもう連中は幸福な種族だと言える。

 窓を全開にする。強い陽光が差し込んでくる。新鮮な空気が部屋中を巡る。おれはチェ・シャグを吸う。そろそろチェのブルーも飽きてきたので次は違う種類のシャグを買う予定である。もっとももう一袋ストックがあるのだが。コストパフォーマンスからいったらチェは最高だ。昨日、20本まとめて巻いてみたが葉の半分も減らなかったようだ。チェのブルーは一袋550円だったから、十二分にコンビニのシガレットより安い。巻く手間はかかるが。

 おれはおれのリスペクトしているまともな友人、人間たちと会話をしていると、なんだかどんな困難な大事業でもやってのけられるような勇気が湧いてくる。部屋に帰ってひとりになると、もうおれは自分を無能力の、とんでもない厄介者、お荷物だと考え始める。これだってきっと脳内の化学物質がどうにかこうにかなって、果たしてそうなるのだろうから人間というやつはぜい弱だと思う。スプーン一杯の薬品、物質でおれたちの人生もなにもかもは一変する。

 おれは現代日本の大衆が抱く常識というやつに心底反発心を覚えているが結局は財産だ。何度でも自分に言い聞かせるが、みんな金の言うことを聞くからおれはさっさと金塊のひとつ、ダイヤモンドの一山を手にすればいいのだ。そうすれば誰にも文句を言わせずに、粗末な庵で静かに読書と瞑想の生活に入門できる。たまに友人がやってきて酒を飲みかわす。手土産にエメラルドの塊でもくれてやる。友人が帰ればおれは再びプラトンの対話篇に向かう。息抜きにデュマの霊験に撃たれる。古典ギリシア語を身につけてイーリアスオデュッセイア―を暗唱する。自分で詩作のマネごともしてみる。妻には上坂すみれ。彼女はまあ外務大臣にでもなるだろう。夫のおれは隠居だ。妻のすみれは社交界の花形を演じていればそれでよい。夫のおれとしても満足だ。含むところはない。たまの休日にはモーツァルトでも一緒に聴きに行こう。新国立劇場デートをしようや。子どもはつくってもいいしつくらなくてもいい。事情がそれを要請するなら養子を迎えるのもいい。おれはミルのような父親になるつもりだ。おれたちの子供は幼少期から古典に通じ、ロシア語と英語とギリシア語ラテン語を習得することとなる。次の時代を支配するグローバル・リーダーだ。おれの庵はどこにつくろう。逗子なんかどうだろうか。海が近いのはいい。あえて住み慣れた埼玉北部の田舎でも悪くない。あのうらぶれた光景はおれは嫌いじゃない。妻が嫌がるだろうか。