幸福について 2017/5/9

 おれはどんな大衆商人風情の言葉よりも、いにしえの賢者の教えを尊ぶ。軽薄な現代人、現代商人よりも過去の英霊たちとの交友を好む。おれは幸福になってみたい。そこで、どんな現代大衆の助言をも無視して、ジョン・ステュアート・ミルの流儀を試してみることにしよう。幸福そのものを追い求めているうちは、幸福のほうがおれから逃げ出してしまう。幸福そのものを追求するのではなく、特定の活動に打ち込むことによっていつの間にか幸福の境地に至るのが理想である。おれはさしあたって名声を手にしようと思う。おれは名声に伴う幸福ではなく、純粋に名声を求めて活動していきたい。おれはまだ若く、野心に燃えるにはちょうどいい頃合いだ。おれはおれの仕事の一瞬間を大事にしながら、一歩ずつ名声に接近していこう。タレスはかく語ったという。「幸福とは上手くいっていることだ」。おれはおれの仕事を上手くこなしていこう。熱中してみよう。神は細部に宿る。おれの仕事の細部に神々を降ろしていこう。おれは心理的に追いつめられている。名声を獲得するか、あるいは死ぬか。おれは一見平和な現代日本に生きていながら、その実、激烈な戦闘の最前線に暮らしている。成功せよ、さもなくば死を。実際のところ、このままずるずると日銭を稼ぐ生活を数年も続けるなんてのには堪えられない。いまでさえもう限界を感じているのに、これがあと500日、1000日と続くと考えると、もうそれだけで胸が苦しくなるようだ。医師はおれに易怒性があると診断している。なるほどおれは怒れる男だ、むしゃくしゃしながら愛想笑いですべてをごまかしている。そんな不健康な習慣は、とても長く保たれるものじゃなかろう。おれは常に怒っている。バイト先に後輩ができた。それだけでおれはずいぶん楽になってしまった。つまりはバイト先のオトナたちの攻撃の矛先が、精神的鞭の標的がそちらに移ったからだ。なんという欺瞞だろう。なんという理不尽だろう。弱い者を奢れる老人たちがぴしゃりと叩く、その音の不快さにおれは歯ぎしりが止まらない。常に耳をふさいでいたいくらいだ。先輩後輩システムはおれをいらだたせる。おれに激烈な怒りを与える。そのシステムという喜劇の役者として振る舞わなければならない己の身になさけなさと怒りを感じる。商人のオトナたちはホメロスともプラトンとも語り合う習慣がないのに、さも自分が人生の練達、善の終着点にたどり着いた誇り高い旅人であるかのように己を評価しているらしい。滑稽だ。そしてやはりそれがおれの怒りを誘う。もっと客観視せよ、もっと賢者の言葉に耳を傾けよ、理解はできなくてもいい、ただ謙虚さだけは身につけようじゃないか。畏れるということを知ろうじゃないか。商人たちよ、システムの歯車よ、それができないなら、いっそ死んでしまうがいい。若者を殺しながら、太い腹をさすって呵々大笑している諸君に明日はない。あるはずがない。あっていいはずがない。最後のひとりになってもいい、ただおれだけは、こうした態度を持ち続けて生きる。死ぬ、その最期の瞬間まで(あるいはその死は、意外にも明日やってくるかしれない。強大な神なるアイデースの招待を、おれはとても拒絶することができない)。おれが心に決めたおれの仕事をこなすことによってやんわりとした幸福を享受するか、あるいは世の中に見切りをつけて死ぬか。それがいまのおれにとって一番の問題だ。システムの麻酔弾を喰らったその時には、おれはいっそアナフィラキシーショックを起こして逝ってしまうつもりだ。