過去日記 2014/11/9

 今日は八時に起きた。朝食はおでんの残りとご飯。のんびりしつつ、十時頃から●●の続きを書き始める。昼食はインスタントラーメンとご飯。炭水化物しか摂取していない。午後もぼんやりと執筆の続き。十四時頃から昼寝。なんとなく筆が進まない。コロラドへ十六時頃再びやってきた。今、コロラドのカウンター席でこの日記を書いている。注文はアメリカン440円。秀吉の話をしているご婦人方や、地元の農夫らが憩っている。コロラドのコーヒーについてくるミルクは、ただの牛乳じゃなくて、濃厚なコーヒー用の乳だと分かった。大量に入れると塩気を感じる。筆が進まないということはどういうことなのか考えてみよう。一つは自分の部屋が悪いということ。どうにも薄暗く、また散らかっていて、お膳の高さもいまいち、作業が捗る環境にはない。どうしても息詰まって、●●などしてしまう。人間の作業が捗る環境整備技術の一つに、リビング効果、つまり人のざわざわしているところにいれば、なぜか集中力が上がるという効果を利用するものがあるらしい。実際、喫茶店にいるほうが筆は進むような気がする。これを利用することに、なぜか罪悪感を抱いてしまう。なぜなら、孤独の内に大事業を成し遂げることこそ、人間がもっとも強く美しく力を発揮するものであると心のどこかで信じているからだ。その考えの原因は、おそらく幼少期から読み続けている空手バカ一代など、梶原一騎的な思想だろうと思う。しかし偉大なギリシアの先哲、ソクラテスとその弟子たちは、ディアレクティケーすなわち対話術を哲学的技術の至上のものとした。つまり、一人ではいけないと主張したのだ。ソクラテスは著作こそ残さなかったが、一人で黙々と哲学していたわけではない。やはり弟子をとったのだ。プラトン以下の人々は、弟子をとって学園を創設したばかりでなく、著作まで残したのだから孤独をいいものと考えていたはずはない。哲学は一人山奥で、孤独の内に行うものではない。哲学者に隠者のイメージを持つのは誤りではないか。孤独を志向した兼行法師は哲学者じゃなくて法師じゃないか。神との、あるいは仏との対話を重視した人々は人間から離れもしようが、人間との対話によって、すなわち理性の力によって仕事をしようという種族は、人のいるところへ出ていなきゃいけない。モンテーニュが言うように、そしてプラトンパイドロスで示されているように、ものを書くということは彼ら哲学者にとってただ老年の慰みに過ぎなかった。おそらく若い内は、そして若いうちに限らずその気力が続く間は、ものを書くことに専念などせず、人々の内にあって会話を続けるのが善い。気の合う人々、かつ、それよりも重要なことだが、哲学的な素養をもった人々の対話ほど、人間の生をもっとも善いものにする行いはない、というのが彼ら哲学者の確信だ。もっとも善い生。サラリーマン生活。ギリシア貴族の生活。どちらがより多く余暇を得ていただろうか。余暇というものが、人間の生活を真に人間らしくするものであるように思われる。シュトラウスは余暇というものを重視していたような気がする。余暇を得ることの出来る人々、すなわち倉庫に食料の満ち満ちている人々。つまりは金持ち。現代日本人の、下層階級に属する自分にとっては、そこになんらかの罪悪感を抱かずにはいられない。そういう風に教育されている。西郷隆盛を尊敬せずにはいられないように教育されている。ちなみにさっき農夫と書いた人は、どうやら消防団の団長だったらしい。人に歴史ありというけれども、屈強な男たちが地域社会に満ち満ちている。この感動はなんだろう。