隣人について 2017/5/12

 今晩はなんだかなにもしたくない気分なので早々に布団に入る。夕食には焼きそば3人前食べた。隣の部屋の紳士が引っ越すにあたって、おれに洗濯機と冷蔵庫を譲ってくれるという話がもちあがった。結局今晩その話はなかったことになり、レースのカーテンだけ譲り受けることになったのだった。いずれにせよその気持ちだけでも嬉しかった。近所付き合いの概念のない東京で、大した面識もない方からそうした話をもちかけられただけで一陣の涼風が吹いたような気持ちよさを感じた。
 なにもしたくない気分だったがいざ布団の中でこうしてポメラを起動してみると指がするする動くから不思議だ。どこかの作家が言ってたが人間読書量が一定を超えると自然とものを書かずにはいられなくなるのだという。おれは浅学の徒で読書も(貧困ゆえ余暇に恵まれないために)満足にしていない男だが、現代の膨大な情報量に曝されているために、こうしてするすると(つまらない)言葉が出てくるのかもしれない。それはとってもストレスフルなことだ。どうも苦役に身を投じてからというもの日記が愚痴っぽくなっていけない。学生時代の日記を読み返すと、文章の巧拙はともかく実に気持ちのよいイベントで内容が満たされている。本当にあの頃はおれの心身にとってよい時代だった。レポートが面倒だとかサークル活動が五月蠅いだとか学生なりの悩みは人並みにあっただろうが、それでも毎日活力を感じて暮らしていたと思う。もっとも大学一回生の頃は神経衰弱に陥っていた記憶がある。授業を受けられずテストにも出席できなかった。それは田舎(マイルドヤンキー文化圏)から都会(ある意味でのハイソサエティーなコミュニティー)へ出てきた者が圧倒されざるをえない、一種のカルチャーショックによるものだったといまでは考えている。とりわけ田舎の実家と都内の学校を毎日往復していたのだから、二つの土地での文化、言語、習慣のギャップに常にとまどい、苦悩していたようだ。そんなおれを救ったのは古典だった。特にルソーの『告白録』なんかはおれに凄まじい衝撃と救済を与えてくれたと記憶している。
 布団に入る前にパロキセチンの30mgとフルニトラゼパムの2mgを服用した。久々に、本当に久々に(おそらく1ヶ月ぶりくらいに)自慰行為をしてみた。たいした快楽はない。排泄のようなものだ。おれはこれで実際童貞だが(そしてそれに対してコンプレックスも抱かず、特段の関心もないのだが)、性交というのがあれほど世人の執着を誘うほど魅力をもつものであるかどうか懐疑的である。要は数あるドラッグのひとつに過ぎないのではないか。カフェイン、アルコール、様々なアルカロイド……ドラッグ――手軽に人間に快楽をもたらす物質は、時の政府によって禁止されたり容認されたり、つまりは流行り廃りでしかないように思うのだが、性交は現代の政府が容認しているドラッグのひとつというだけではないのか。最近はニコチンが不遇だ。カフェインには寛容だ。海外では大麻が隆盛しつつあるとか聞く。結局、流行り廃りではないのか。ニコチンが絶対の悪だとか、カフェインが善のネクタールだとか、そんなのは宗教の類だ。カフェイン入りの飲料を胃に流し込みながらニコチンの害を語って得意になっている商人がいた。おれは半分冷笑しつつ、半分(彼の視野の狭さに)憤り、いらだちを覚えていた。カフェインが禁止された歴史だって事実存在するのだ。ちなみにおれの中の流行りはエチゾラムジアゼパムパロキセチンゾルピデムスルピリドフルニトラゼパムトリアゾラムとリスペリドンと――そうした類の奴らだ。おれの健康などに関心を示すな、商人ども。誠実さの欠片もなく笑うんじゃない。貴様らはどう転んでも盗賊とか殺人者とか、そういうカテゴリーの人種だ。いまさら人倫を説こうとは思うな。