過去日記 2017/3/27

 いまおれは東京の上空でこの文章を書いている。バイト先の出張業務で熊本へ向かう途中だ。わずかながらもおれのプライベートの時間が侵害されている。些細なことでも大きな怒りを覚えている。そのためのパロキセチン。いい薬です。休日はまず、フルメタル・パニックハルヒを1巻から最後まで再読するのがよい。で、途中でムラムラと創作意欲が湧いてきたら、のろのろと書き出せばいいのだ。ポレポレ。文字を相手にしている間は、少なくともレトロゲームやつまらないブラウジングで時間を浪費することがない。それに、本当の名作に触れることはおれの人生の時間をより有意義なものに仕立て上げる。読むために生まれてきたと感じる瞬間がやってくる。おれはかつて高崎線の車内で、『ジャン・クリストフ』や『ドン・キホーテ』を読んでよく涙したものだった。あの素晴らしい時代こそをおれは再び渇望する。そしてそれは財産をつくりさえすれば、あるいはそれ相応の職を手にさえすれば獲得できるものなのだ。だからデビューだ。それがすべてを解決する。解決するかどうかはわからないにしても、解決の糸口にはなる。いまのままではいけない。ドレインのなかで腐り果てるような生活だけはゴメンだ。おれの良心が、魂が、そう叫んでいるのだ。

 おれが思っているよりもずっとわずかな時間なのかもしれない。この労働に身をやつすのは。おおよそ2年。もしそれが短く感じられるようだったら、おれは幸福だろう。もしそれが長く感じられるようだったら、おれは人生をより密度の濃いものとしたのだ。だからどちらに転がっても善いのだ。

 いま、飲み物のサービスのアナウンスが流れた。夜だがおれはカフェインを摂取したい気分でいる。カフェインとゾルピデムのどちらが勝るか。ロヒプノールもしっかり準備してきてある。時間のある明日以降、スニッフして楽しむタイミングがあるだろう。ブロンもある。84錠入りのやつを手に入れている。もっとももう21錠は飲んじまったが、残り3回分ある。今回の労働の慰みにはもってこいだ。使うとしたらこのタイミングだろう。

 おれはまだ若い。それだけは確かだ。若くして成功している者もある。教育が良かったのだ。両親の語彙レベルによって子の能力も変わってくる。おれの両親は高卒で、教養人や読書人のひとりに数えられるような人種ではなかった。おれは日本神話もギリシア神話も知らずに生きてきた。おれの教養はもっぱらおれの読書によって培うしかない。それは人生を通しての課題である。もっとも明日死ぬかもしれないし、きょういまにでもこの飛行機が墜落して死ぬかもしれない。一生、なんて言葉を軽々しく使うのはためらわれる。「一生」にはせいぜい平均寿命くらいは生きるだろうという慢心が込められている。一生はきょうだけだ。明日には死んでいる。そういう場合だって十二分にあるのだ。それを実感させてくれないのが人間の脳のつくりのうまいところだ。たとえばおれが死ぬことを考えたとき、まず身辺整理しなければと思う。が、死は生の領域で残したポルノデータやその他のつまらないものなんかどうでもいいところに連れて行ってくれるはずなのだ。おれはゲームのセーブデータを消去するとき、消去されるべきデータを整理したりするだろうか? 消すための儀式みたいなことを行うだろうか? 答えは否だ。

 自由! これが手に入りさえすればおれの人生はどれほど輝きに満ちたものになるだろうか。財産をもっている人間は自由だ。おれはそれが羨ましいし、当然おれもそこを目指さなくてはならないと感じている。キャリアアップしてよりよい待遇で老年まで労働を続ける? そんな考えにとりつかれた人間たちをおれは軽蔑する。自らが熟慮の上で選択した組織に所属し、そこで自らの望む行動ができるのならそれもいいだろう。だが大半はそうではないはずだ。もしなにかを自由に行いたいのなら、借り物の設備、用具ではなく、自らの資本で手に入れた道具をもってしてやるべきではないだろうか? 

 カフェインを摂取した。ニューロンが興奮している。

 明日からまたはじまる労働。労働バーを押す。あくる日も押す。アリのような生活。昆虫と化すことを強いられる生活。それに疑問を抱かない大衆に囲まれて生活しなければいけない苦悩。なまじ物質的な豊かさ。見えづらい社会の歪み。歪みはヒステリー球となっておれを責めさいなむ。タレスはいった。幸福とは物事がうまくいっている時のことだと。いろいろの解釈ができるが、おれの場合の物事とはつまり執筆のことだ。資本をつくりだす活動のことで、資本の先にある自由と享楽と真理追究の生活を想うことだ。卑しい労働を含むあらゆる雑事とは異なり、読むことと書くことだけはおれの自由な生活に結びついている。だが、明日死ぬかもしれない。明日死ぬならどうする。卑しい労働の泥土に身を横たえて、重力の心地よさを感じる。それでいいのか? おれは毎日の闘争に誇りを抱いてはいないのか? おれは誰かにおれの戦闘を承認されなくては気が済まないのかもしれない。だからこそ●●や●●との交歓をあれほどまでに楽しんでいるのかもしれない。上坂すみれへのあこがれ、一方的な崇拝もそのあたりの感覚にあるのかもしれない。上流階級の美しい女性たちはきっと毎日にこやかに過ごしている。ラテン語など勉強しながら暮らしている。たまにはピアノを弾いたり、オペラを歌ったりもするだろう。それでプラトンアリストテレスについて語ったりもするのだろう。ゲーテの詩を愛していたりもするのだろう。彼女たちはおれの闘争に慈愛の目を向けてくれるだろう。なぜなら彼女たちの愛の対象は血筋や財産にあるのではなく、その先にあるコスモポリタン的な生にあるからだ。人類みな兄弟、そしてその兄弟らはみな哲学者でなくてはならない。あるいはムーサに愛されているとか、パラス・アテーネーの寵愛を身に浴びているとか、そういう人種。おれはおれの戦闘を自分では承認しているし、それを何度も言葉にしている。頭の中で反芻するのは毎日の習慣だし、たまにはこうして明文化したりする。だが、おれもまた命死すべき人間の仲間であり、おれの同胞たちから認められたいという欲求が頭をもたげる。どうしようもないことだ。腹をすかすのと同じくらい自然だ。その承認を大衆に求めるのだけはやめてもらいたい。なにか致命的な錯覚を起こして危険な状態に身を置く結末を迎える。それが過酷な労働現場の洗脳だったり、怪しげな新興宗教だったり、悪しき習慣の盲目的な追従だったりするのだろう。おれは先輩・後輩制度を疎ましく思っている。戦闘は緻密な策略をもってして進めなければならないから、おれはあえて「センパイ」に敬語を使うのをやめたりはしない、できないだろう。しかし後輩に対しては敬語をもって接し、敬意を隠そうともせず、へりくだって対応してやる。それがおれなりの戦いのつもりだ。「先輩なのに――」「後輩なのに――」という言説がまるで人間関係における普遍的法則のように感じている人種は軽蔑に値する。盲目的に信仰している連中はけしからぬセクト構成員と変わらない。おれはこういう罠によくよく気を付けよう。日本人に生まれた以上なにかしら影響を受けるのは仕方がないが、常に自分の身に起こっていることに目を光らせて、なにが普遍的でなにがそうでないのかを精査する癖を身に着けよう。怒りは湧いてくるだろう。大衆は変えられないものだ。だがおれはおれを変えることができるし、戦闘は行える。その戦意こそが誇り高い生の態度ではないか。ものを疑るという、尊い行いではないか? おれはパソコンのロックを解除した。おれは若くして死ぬかもしれない。死後、この文章はきっと身内の目に入ることだろう。友人たちにも機会があれば読んでほしい。おれはいま、西暦2017年3月27日、いつ終わるともしれない戦いを戦っている。精神は傷つき、肉体は疲労し、薬に頼って生存しているおれだが、「適応」して昆虫になってしまうのだけはゴメンだ。おれはクチクラの外骨格をもった生物ではない。骨があり肉があり、赤い血が通う、われらがソクラテスに連なるhuman beingなのである。

 技術の話をしよう。まだフライトは終わらない。あと30分ほどで到着の予定だ。技術。art。ライトノベルを量産するのは才能ではなく技術だ。おれは前々から才能とか霊感とかには懐疑的になっている、というよりまったく信じていない。なぜか音楽や文章の芸術となるとそういう迷信じみたものが持ち出されてくるが、おれは職人技によってのみ(のみ、ってこともないが――サルにタイプライターを渡したら、偶然『オセロー』を書き上げる可能性だってあるだろう)商業的に成功する作品ないしは古典たりうる成果物がもたらされると考えている。おれは早急に技術を身につけなければならない。脚本の技法。三幕構成。マジックナンバー7。数学的均整。フォルマリズム。魅力的題材。次の文化を担う題材選び。『フルメタル・パニック!』は題材が魅力的だ。帰国子女という国際人的な日本人(英語による会話や異文化への理解を可能にする設定)と、紛争地帯で生きた傭兵の組み合わせが絶妙だ。さらには緻密な取材に基づいた”Α”と、著者の映画インプットから導き出された”Σ”、”X”から自然にもたらされると思われる”Δ”、これらが美しい均衡を実現している。緊張と弛緩。戦場と学校。『涼宮ハルヒの憂鬱』は不思議だ。角川スニーカーに投稿するにはあまりに実験的な文体。構成は数学的で美しい。マジックナンバー3の使用(宇宙人、未来人、超能力者――アトス、ポルトス、アラミス――悟空、猪八戒沙悟浄)。著者の読書体験から生み出された鋭角的な”Α”。ホラーの魅力を放つ”Σ”。日常から非日常へ移行する際のゾクゾク感は、中学3年生のおれを虜にするには十分すぎるほどだった。『消失』ではその魅力が頂点に達する。日常が非日常へ知らぬ間に移行する。日常はしかし退屈なものではなく、ハルヒという”X”がこれをエキサイティングなものにする。