社会を殺すことについて 2017/5/25 Ⅱ

 医師は言った。「社会に殺されるくらいなら、貴公が社会を殺せ」と。おれは具体的にどんな行動をとったらいいのだろうか。通り魔。いやいや、それでは社会は殺せない。せいぜい大衆の7、8人を殺すだけだ。「社会」はほとんどノーダメージだろう。経済的成功を収めればいいのか? なるほどおれが成功した暁には、成功という席、枠を取り損ねた敗残者たちが首をくくることになる。しかしそれはおれの本意ではない。彼らルーザーたちはおれの想定している敵「社会」ではない。「社会」。掴み所のない言葉だ。いったいおれは何を相手に戦っているのだろうか。まずひとつは己自身の抱えている貧困だろう。貧困の原因は先祖の不運に見いだせるだろう。過去に復讐する手段をおれは持たない。墓につばを吐きかけたって気は晴れない。墓石は先祖ではない。先祖の不運そのものではない。ただの石だ。アイコンだ。
 より現実的には、おれを苦しめる苦役先の人間どもをこらしめてやるのが手っ取り早いだろう。昔の苦役先も含め、これまでおれをさんざんにやっつけてくれた連中の心臓に鉛弾一発放り込めばそれなりに愉快かもしれない。しかし、どうやって? こらしめるといったって、奴らは法や秩序やその他諸々、堅牢な鎧で身を固めている。とうてい返り討ちは免れない。それにその後のおれの生活ってものがおじゃんになる。無論、きょう明日にでも死のうという男に生活もなにもあったものじゃないのは分かっているが、それでもこの手段を選択するのは気が進まない。大衆1人を殺したって残りの大衆はいっぱいいる。そいつらと付き合って今後やってかなくてはならないのなら、つまるところおれの蛮行は徒労に終わるのだ。
 医師の言葉の意味がよく理解できないでいる。つまり、どうしろというのだ。ただその場凌ぎの慰めに過ぎなかったのか。おれには社会は殺せなさそうなんだ、どうも。ボナパルトにだって出来なかっただろう。それじゃあおれも無理だ。易怒性を抱えたおれが易刺激性に満ちたサラリーマンを押して満員電車に飛び込む。サラリーマンは舌打ちしてこちらの靴を踏んでくる。おれはキッと目を見開いて抜刀の欲求を抑える。そうしていつもなんとかやっている。おれはダメだ。リスペリドンを飲むぞ。もう5回飲んだ。5回社会にしてやられた、見事殺された計算だ。人類を絶滅させるよりもおれが死んだ方が手っ取り早い、効率がよい。くそったれ。おれは舌打ちなんかしない。サラリーマンが舌打ちするからだ。おれは自己啓発本なんて読まない。サラリーマンが自己啓発本を読むからだ。おれは酒盛りの場で苦役のグチなど吐かない。サラリーマンがそんなようなことをするからだ。おれはバンダナを額に巻いてやる。サラリーマンはバンダナを巻かないからだ。おれは剣を帯びて闊歩する。サラリーマンは武装しないからだ。おれには気を使う必要のある友人なんて要らない。サラリーマンの交友を見ているとムカムカする。おれは社長に頭なんて下げない。それは己をいたずらに卑しめる行為だからだ。おれは狂人の真似して暮らしてやる。大衆にはそんなこととてもできないからだ。「狂人の真似をしたら実際狂人」、おれは狂人だ、しかも武装している。