苦役について 2017/6/25

 格差社会は巧妙に隠蔽されている。おれたちは格差のどん底にいる。サラリーマンはみな格差のどん底にいる。課長、部長クラスになればいくらかはマシに感じられるのかもしれないが、「感じられる」だけだ。彼らは古典には興味を示さないことが多い。それは不幸だ。現代、古典の翻訳がここまで流通している世の中で、あえて古典を選ばず自己啓発本、ビジネス新書を読むなど、狂気の沙汰、無知のなせる悪行としか思えない。実際のところ彼らは不幸だ。しかし不幸でないかのように生活している。そこに不幸がある。知られざる不幸がある。自覚できない不幸がある。おれは他人の心配をしてどうしようというのか。おれは「我一人我が道を行く」。ダルタニャンのごとく。
 ダルタニャンは老年になるまで元帥杖をあきらめなかった。その熱意が、忍耐がいまのおれには必要だろう。24でなにを焦っているのか。おれはフランス人のごとく快活に生きればそれでいい。快活さはクリエイティヴを誘発する。
 おれの苦役はアルバイトだ。一時しのぎのビジネスだ。それをおれは往々にして忘れがちだ。それがよくない。ちょっと油断するとおれはいまの苦役先で一生を過ごすプランを妄想しがちだが、おれはどうしたって最長3年もいれば転職を考える。あるいはその前に独立をしている。忍耐が必要だ。おれと企業は単なる契約関係に過ぎない。義兄弟の杯を交わしたわけではない。居座る必要はこれっぽっちもないのだ。相手に迷惑をかける、なんてことを考える必要はないのだ。待遇に不満だったらさっさとその場を去る。それは企業側もやっていることだろう。不利益なビジネスからは早々に撤退する。おれも同じようにやるだけだ。文句をつけられる筋合いはまったくない。企業は慈善活動を行っているのではない。同じように、おれも慈善の心から一生同じ職場で勤め上げなくてはいけない義理はない。
 ライトノベルを読んでいるとこれほどまでにつまらないものが商業として成り立っているのかと、不安になる。おれのつくるものはまだ稚拙だが、稚拙な点を改善してある程度のところまでクオリティを底上げできれば、デビューの目は必ず見えてくる。同じ事を多くの作家がやっている。おれにだけ出来ないという法はない。おれは他人より卓越した頭脳をもっている。それは客観的に証明されている。だからおれは成功できる。成功とはいわずとも、いまの腐敗した生活からは必ず抜け出すことができる。
 幸福になるには5つの方法があるという。どこかの記事で読んだ。まず1つ、SNSを見ないこと。2つ目、余暇をもつこと。余暇を過小評価しないこと。3つ目、屋内にじっとしていないこと。4つ目、物質主義に走ること。5つ目、創造性を押し殺すこと。いずれももっともらしい言葉におれには思える。思い当たる節がいくつもある。
 不安が、漠然とした不安がいつもおれの胸の中に沈滞している。これをどうにか出来ないものか。大学時代までさかのぼらなくてもいいが、せめて苦役をはじめたばっかりの頃の、あの、少しは希望に満ちていた瞬間瞬間を思い出して欲しい。比べていまのおれの生活は、消えることのない希死念慮に支配されてさんざんなものだ。なんとか改善したいものだ。成功の確信もなく、かといって重苦しく考えることもなく、奴隷の王となんちゃらという作品をなろうに投稿していた頃の快活さを少しは取り戻したいものだ。医者にかかって服薬しているからこんなことになってしまったのか、それとも医者のおかげでこれだけの落ち込みで済んでいるのか、それは分からない。医者の言葉は絶対ではない。おれはDXMを今後も使い続けるだろう。ダメだと言われても、おれの生活のデフラグに必要なそれを捨てることはありえない。そこに罪悪感をもつ必要はない。医者としてもDXMの使用を推奨する言葉は、職業柄できないはずだ。しかし本心は分からない。もしかしたらドクターはドクターで、トリップの有効性を心の奥底では信じているのかもしれない。
 おれは総務人事部長が嫌いだし、管理部長が嫌いだし、事業部長が嫌いだし、課長もみな嫌いだし、ペーペーもみな嫌いだ。話が合わない。思想がまったく違いすぎる。異教徒のなかで暮らしているみたいだ。この現象に対する対処法を、建設的な対処法を考えなくてはいけない。QOLを上昇させるためにだ。彼らの雑談はレベルが低くておれをイライラさせる。所詮、学歴の差ってのはつまり人間が仲良くなれるか否かの差にいくらかは関わっているのではないか。残念ながら教育の面においても格差というのは存在しているようにおれには思われる。わけのわからない連中の雑談、笑い話は、おれの眉をひそめさせるだけだ。カイシャの飲み会? くそくらえだ。苦痛でしかない。そんなくだらない合法ドラッグパーティーになぜ半ば強制的に出撃しなくてはならないのか。企業側にとって都合のよい口実だ。おれははらわたが煮えくり返りそうだ。そういう細かい欺瞞もおれの目にははっきり見えている。
 しかしそういう怒りも、結局は大局的に見れば一時的なものだし、おれはおれの道を行くから必要以上に振り回されてはいけない。それをおれは毎日おれ自身に言い聞かせているが、おれはまだまだ修行が足りないのか、人間というものを信じたくなってしまう。苦役先の人間が改心しないものかと、いつかおれと心を通わせるようにならないかと、少しは期待してしまうのだ。これは人間の性でもあろう。いくら卑しくとも連中は人間で、昆虫ではないのだ。苦しい事実だ。