おれのシリアスなことについて 2017/6/27

 いや、きょうはシリアスな気分だったが、読み返せば昨日の日記、実に愉快だな。真実に満ち満ちているよ。確認しておくが、おれは奴隷じゃなくて自由の身だ。いまは望んで奴隷になっているだけで、自由民になろうと思えばいつでもなれる点で古代に比べて恵まれているのだ。辞めて、ホームレスでもなんでもすればいいじゃないか。ちょっと貯金をしよう。12月まで貯金して、それから身の振り方を改めて考えよう。10万貯まるか分からないが、そのくらいあればきっと新小岩を飛び出すことはできよう。無理矢理受けさせられた研修の費用は12月まで勤め上げればチャラになる。だから30年の1月に仕事を辞める。それもひとつの選択肢だ。入院するのもいい。休職してから辞めるのもいいな。すべておれは誰かの指図を受けるのではなく、自分で考えて計画して行動していいのだ。そのやり方にまだ馴れていないところがあるな。指示を待っている感がある。そうではないのだ。おれはあくまで自由だ。望んで奴隷のまねごとをしているだけだ。それも一時的なものだ。おれはビジネスマンなんていう奴隷にはならない。確かなことだろう、これは。これからは米と味噌を食べよう。節約をしよう。●に行くのはやめだ。出不精になろう。そう●の誘いに乗り続けることもない。●だのなんだのでつまらない出費が増えていくだけだ。ラインは無視すればそれでいい。おれはメール無精だ。なにも良心を痛めることはない。●が悪いわけでも憎いわけでもない。ただ、おれはそういう決定に関してどこまでも自由なんだ。その自由を行使した結果失うものがあるなら、それはきっとはじめから保有していなかったものなんだ。おれが本当にもっているのは気高い心だ。批判精神だ。システムの不調和を感じ取る心だ。真実の眼だ。放浪時代はルソーにだってあったんだ。おれも放浪して、どこかのNPOに拾われて、そんでなにか易しい職にありつけるかもしれない。望むなら、そこから社会生活を再起するのだって可能だ。
 この時代にこの文章を書く。これは非常に意味があることだ。老人になったおれはこれを読み返して頷いているはずだ。ビジネスの慣習を普遍的な人間の善の態度と錯覚している連中の滑稽さのレポートに、破顔しているはずだ。
 そうだ、おれは古典愛好者の緩やかな連帯に所属している。所属の意識を時折思い出すとしよう。孤独ではないのだ。違和感を感じているのは、反骨精神を抱いているのは、身近にもいるし、遠くにもいる、仲間がいる。いまこの瞬間、どこかの列車の窓際で、岩波文庫を開いた婦人がいる。仲間だ。違和感を抱いているのはおれだけではないはずなんだ。おれよりも聡明な若者はたくさんいる。おれは大学で会ったことがたくさんあるだろう。彼らもまた仲間だ。おれと同じ状況に置かれれば、同じことを考えるに違いないのだ。
 おれは一体全体視野が現在に限られてしまって、シリアスになりすぎるきらいがある。もっと泰然自若として生きよう。DXMでも●でも、キマっている時の精神状態を思い出すことだ。無敵だ。そんな娯楽はまだ消えていない。後者はともかく前者DXMは普通にどこでも売っているのだ。おれにぴったりのかわいい丸薬じゃないか。
 この生活を続けていけばいずれデビューはできるだろうな。足りないのは場数、というか弾数だけだ。世間(出版社)の眼に触れるように作品を公開していないのが悪い。少なくとも年に4作は、おれがそれをどれだけ気に入らなくても応募してみるべきだろう。作っていれば技術も向上してくるし、とにかく前進は悪いことではない、良いことずくめだ。平日だって過労死ラインを超えない程度に残業という名目で執筆をすればいいのだ。Δは無理せずおれの関心のあることだけに絞れば単純明快だ。