自由について 2017/6/28

 おれはいま群馬に向かう最中である。新幹線に乗っている。出張だ。苦役の内容自体は大したものではない。朝、早起きさせられたのは実に不愉快だが(出勤が早いからといって早朝手当がでるわけでなし)。おれは昨日奴隷ビジネスマン(ビジネスにおける作法・技術を人間の普遍的な善であると錯覚している連中)に酷い叱責を食らい、なんだかそればかりが脳内でリフレインして不快だ。時間が解決するだろう。1週間もすればどうでもよくなっているに違いない。しかしその1週間待つのがなかなかどうして辛いのである。辛いことは辛いが、おれは昨日も再確認したように、自分が思っている以上に自由の身だ。どこへでも行ける。ちょっとの金が入り用かもしれんが、とにかく自由なのだ。身体を物理的に拘束されていても、精神は仙境に暮らすということはできる。難しいし、訓練が必要だがな。
 今朝はメダカの採卵をしていたら遅刻してしまって、予定より1本遅れた新幹線に乗ることになった。だが、万事問題ない。目的地に着く時間には元々余裕を持たせていたから、深刻な事態にはならない。……なにが「深刻な」事態か。苦役上のことで真にまじめに取り扱うべき事項など、なにもないのだ。商売に過ぎない。卑しい商売の手伝いに過ぎないではないか。
 昨日ビジネスマンにピリっと気合いを入れられたせいか、心を含めた全身がどことなく緊張状態にある。戦闘状態にある。そういえばカッターナイフをポケットに忍ばせてくるのを忘れた。次、叱責されるような事態があったら一芝居打ってやろうと思っている。ナイフで手首を切り刻んで奇声を発し、暴れ回ってやるのだ。そうすりゃ入院できるだろう。そこまですれば状況は好転するだろう。
 まったく、おれの驕りを抜きにしても、本当の意味でおれが感じ入るような説教というものを、現代の「オトナ」から受けたことがない。どいつもこいつもビジネス上のことを人間の普遍的な善と取り違えていたり、誤謬と臆見に満ちていやがるのだ。おれを丸め込むような弁論術をもつ男も皆無。本当に尊敬できる師を持ちたいが、大衆社会にはそうそう見あたらない。どうしてこんなにみな現代のオトナは幼いのだろうか? どうして商人の道徳(というより、単なる技術)を信仰してしまうのだろうか? 義務教育が悪かったんだろうな。それは確かに原因のひとつだ。みんな金と生活の維持だけに気を取られて、天上のことに関心をもっていない。盲目である。そんな連中に囲まれていたらおれの気も狂うさ。本当に同じ人間なのか疑わしくなってくる。
 おれは寝るか食うか苦役に縛られるか、あるいは書くか。その4つだ。4つで生活を構成しよう。寝るのは大事だ。食うのも重要だ。苦役は生活を維持するために仕方あるまい。書くことはおれの自由のための肝だ。
 付き合いたくない人と付き合う必要はないのだ。人は後天的な教育で変わることができるが、おれはおれの苦手とする連中が後天的な変化をするのを待つ義理をもっていない。ゆえにおれは嫌な連中からは距離を置く。
 あとは希望を持って待つだけだ。「待て、しかして希望せよ!」。
 おれの望む自由な暮らしが始まれば、あらゆる景色がいまとは違ったように見えるだろうな。
 計画を立てよう。2ヶ月に1作品は仕上げたいところだ。弾数を増やすのがなによりも肝要だとおれは思っている。省察はもう十分だ。反省はその都度やればいい。残るは行動だ。